初等部 園長・校長コラム「風」

風62 教室に社会を通わせる

幼稚園花壇・オオムラサキアスレチックの壁のぼりに挑戦する1年生!(5月1日)新緑の中、アスレチックで遊ぶ。壁のぼり待ち!肋ぼくに挑戦の1年生!自然広場にタンポポの綿毛を播く!低学年校舎2階明かりとりからの青空(5月12日)1年生、アサガオのポットを持ってちょっと寄り道(5月14日)3年生・畑でキュウリの植え付け(5月14日)キュウリに水やり(5月14日)幼稚園庭で実習生と遊ぶ(5月14日)ブランコ漕ぎ(幼稚園・5月14日)幼稚園の砂場で泥んこ遊び(5月14日)幼稚園ばら組の着替え自分で着替える!

教室に社会を通わせる

2012年度初等部PTA総会・閉会の挨拶~

今年は春の訪れが遅く、珍しく始業式、入学式、入園式までソメイヨシノが咲いていました。4月に入園入学したばら組や1年生子どもたちも元気に生活を始めています。昨日、1年生の子どもたちと体育館近くの通路で出会いました。手に小さなプラスチックケースを持って、覗き込みながら話していました。
「ぼくのは、4人家族!」
「ぼくは、6人家族だよ!」とダンゴムシを自分の家族に見立てて話していました。ダンゴムシも子どもにとっては家族同然の親しみを持っているのだな、とほほえましくなってきました。

今は、春からすでに初夏となり、若葉が美しい季節となりました。5月の連休には低気圧の通過により集中豪雨となり、また近くは気象状況の不安定さで、突風、竜巻による被害も出されました。二日前には朝から好天でしたが、午後からはげしい雨となり、雷もあり、風が吹き荒れ、2、3、4年生の遠足も何とか無事に終わったという感じです。

中学校のころに国語で習った、芭蕉の俳句、あまりに有名な、
五月雨を集めて早し最上川
は、最上川の急流の滔々たるさましかイメージしていませんでしたが、紀行文「奥の細道」の部分に、「水みなぎって舟あやうし」、と表現された後に続く句で、芭蕉は命懸けで奥州の旅に出て、急流の最上川を舟で下ったことがわかります。まさに命懸けです。これは6年生との国語の授業で学びあったことです。

3.11の大震災から昨日で1年2カ月経ちました。今なお、被災地では困難な生活が続いています。がれきの処理についてもなかなか他道府県の協力が得られない状況にあります。原発事故による放射能の線量のことが心配になります。初等部では、学園で購入した線量計で測定を行ってきました。子どもの健康を守るということを今後も続けていきたいと考えます

6年生との国語「トピックス」の授業で、いきなり、「ゼロ」という文字を黒板に書いてから学習を始めました。連休中に、新聞やテレビで「ゼロ」ということばを見聞きしていませんでしたか、と問いました。皆さんはどうでしょうか? 子どもたちからは5、6人の手が挙がりました。

子ども新聞に「原発ゼロに」という見出しと記事が出されていました。大人の新聞にも「原発ゼロ」ということが出ていました。北海道電力の泊原子力発電所の3号機が定期検査となって、全国の原発が5月5日の子どもの日に54基(50基*)が稼働を止めている、というゼロなのです。子どもの日に「原発ゼロ」になるのは何か象徴的です。この授業は続いていますが、6年生として自分の意見を持ち交流していく力を育てていきたいと思います。「教室に社会を通わせる」ということでしょう。

5日の天声人語には、「福島の子どもたちからの手紙」(朝日新聞出版)で高校3年生の手紙「想い続ける三つのこと」が紹介されていました。

「不安、悲しい、腹立たしい。体への影響が心配、何故こんなことが起きてしまったのか、何故ここなのか」と。何故について少しでも応えられるよう私たち大人も「社会を通わせ」ながら、生きていきたいと思います。
*50基=福島第一原子力発電所、1~4号基が廃炉となるので原発は50基となる。

初等部のPTA活動は一貫して子どもを真ん中にして、子育て、環境、文化などを考え続けています。大震災から何を考えていくか、何を学んでいくかについて、1年2カ月経った今でも続けなくてはなりません。

初等部通信のコラム「風」57号、「こころに刻んで!」にも書きましたが、この1年、学校として学園として震災に関わってさまざまに取り組んできました。幼稚園、小学校の「緊急時の対策」の改訂、緊急時の安全対策(非常食、非常用毛布、簡易トイレ等)、小学校の「調布市のメール配信」の開設(開設準備中)、「子どもの健康を守るために」の発信、放射能測定機器の購入と測定。そして「初等部通信」の発信。この園長・校長コラム「風」も3.11東日本大震災、原発事故以降、書き綴ってきました。もう一度子どもや授業や教育の原点から見直し、構想し、実践していくことを志向していきました。今年度も初等部通信にそれらを表現していこうと思います。

2012年度活動方針が決定し、活動が始まります。今年度も「子どもを真ん中においたPTA活動」「ということを大事にしながら活動をすすめていきたいと思います。PTA役員の方がた、会員のみなさんご協力をお願いします。

2011年度の役員の方がた、ありがとうございました。みなさんと大きな拍手でねぎらいたい、と思います。これで2012年度初等部PTA定例総会をおわります。ありがとうございました。

(2012年5月12日 武藤 昭)

風61 心地よい季節のなかで

オオムラサキ、クルメツツジが咲きだした。咲きだしたツツジの赤い花の上に桜花が舞いおりている。遅い桜と初夏を告げるツツジの花が同居している光景も珍しい。と、思って見ていると正門そばにはミツバツツジが早くに花を咲かせ散りはじめた。すぐとなりのシモクレンの花は今が盛りで紫の大きな花がきらびやかだ。

正門近く通用門を通ってすぐ左にはソメイヨシノがすっかり葉桜になって紅い花柄が落ち、絨毯になっている。ハナミズキは白い花が満開で、アケボノスギ(メタセコイヤ)、ケヤキはうっすらと若葉が出はじめている。短大校舎前のハナカエデ、メグスリノキも冬木の様相が変わりこれまた小さな若葉がみられる。

寒さの残る春から、温かさの春、そして季節は初夏の感じである。入学式、入園式と素晴らしい天気であったけれど、吹く風には冷たさが残っていた。昨日などは真夏日の所も出て、東京も25度を超えた夏日であった。

毎朝着るものに迷い、薄いコートを羽織るかどうか考えている。昨朝もおきまりのように黒の春コートを着たが、道行く人はスーツ姿、小学生など夏服の白い半そで姿になってもいた。桐朋の子どもたちは、とみているとすでに制服の上着を取って登校している子どももいる。昼休みなど暑さはピークとなり、下着姿の女子もいた。

幼稚園ばら組がスタートして9日、小学校1年生は10日目である。まだ9日、10日か、という思いが強い。1年生の教室に行くと、机を円形に並べたり、コの字型に並べて生活が始まった。名前を覚えていったり、歌遊びをしたり、着替えをしたり、子どもたちの気持ちをほぐしながら生活は順調にスタートしている。幼稚園、保育園時代にはなかった一人用の机・椅子で一定期間同じ所に座っていることを子どもたちはどう感じているだろうか。なかには机が寄りかかりの道具となって子どももいる。あるいはお尻をずらして潜り込む子どももいる。

歌遊びや紙芝居での子どもたちの表情はとても素敵だ。ほんとうに屈託なくよく笑う、からだ全体で笑っている感じだ。次はどうなるのか、と待つ表情も素晴らしい。歌遊びなどは、からだが伸びあがり、ジャンプするように笑い踊る。先生と子どもたちが作りだす心地いい時間だ。屈託のなさ、心地の良さは、1年生になったという喜びの感情もそうさせているのであろう。

今朝もホームルーム中の1年生の教室を訪ねた。「3時間目は休み時間!」と先生が元気良く告げると、子どもたちは大喜び。「やったー」とばんざいをする子どもたち。これも屈託ない。子どもたちが自由に発表する時間となった。トップには女子が手に小さな透明水槽を持って前に来た。そこには数匹のダンゴムシがあった。すぐさま女子はダンゴムシを手のひらに乗せて教室の仲間に見せている。覗き込み興味を示す子どもたちだ。担任の丸山先生はこの時を逃さず、「ダンゴムシ探しに行こう!」と呼びかけた。言い終わるのと同時に席を立ち、靴箱に行って履き替えている。

ぼくもカメラ片手にゆっくりと追っていった。行く先は自然広場だろうな、と思っていると全く違い、通学路を通り体育館の脇を通り、購買部近くの植え込みに子どもたちが群がっていた。ここが子どもたちの格好のダンゴムシポイントだった。ぼくは今朝、ここのハナカエデやメグスリノキの若葉を見ていた。子どもたちは地面を見つめてダンゴムシを見つけ、仲間を誘って探しに来た。「ダンゴムシがこんなにふえちゃった!」と大喜びの子どもたち。この子どもたちに昨日、「校長先生はカメラマンですか?」と聞かれてしまった。

昨日はじめての自分たちだけの下校が行われた。帰るその手には、菜の花の束、ビニールの小袋に水を入れたなかに菜の花のお土産があったはずだ。これも畑や自然広場で散歩の時に摘んだのだろう。

季節はめまぐるしく変わり、スピードも速く動いている。桐朋小学校の1年生はそんな季節のなかで、自然のなかで楽しみ、触れ合い、ゆったりと生活を始めている。

(2012年4月25日 武藤 昭)

風60 たのしい握手!

たのしい握手!

2012年度入学式点描~

はなが さいた/はなが さいた

はひふへ ほほほ

はなが さいて/みない ひと いない

はなが さいた/はなが さいた

ほへふひ ははは

はなが さいて/おこる ひと いない

(まど・みちお「花いっぱい―まどさんの詩の本」理論社)

前夜の強い風、強い雨は嘘のように、4月12日は快晴、微風の天気でした。こんな穏やかで温かい天気のもと、桐朋小学校の入学式がおこなわれました(創立は1955年なので、今年は第59回入学式となるのでしょう)。素晴らしい天気に恵まれ入学式が持てたことを嬉しく思いました。正門の桜(ソメイヨシノ)も小学校校庭の桜もちゃんとたくさんの花を咲かせて、子どもたちを待っていました。お子さんのご入学ほんとうにおめでとうございます。

入学式の受付前に、新1年生と5年生のパートナーが自分たちで定めた場所で初めての出会いをしました。会えないで困っている1年生親子や5年生からの連絡もなく、無事に小学校まできました。受付は小学校高学年校舎前で行いましたが、予定の時刻のかなり前から並び、長い列は、体育館の方まで伸びていた、と言います。きっと、出会いの嬉しさから早め早めの待ち合わせ時間になったと思われます。1年生と5年生の出会いの嬉しさと意欲をいっぱいに感じました。

入学式の始まりは1年生と5年生の入場で始まります。1年生は、全く初めての場所で、しかも舞台裏からの入場で、緊張は大きかっただろうと思います。どの1年生も5年生に寄り添うように体を5年生の方に向け、足早に自分の席にいこうとしました。5年生は、握った手を少し引き、留めていました。

担任の先生から名前を呼ばれ、校章、桐朋小学校の桐のバッチを校長から手渡されます。この時は何度経験してもおもしろい光景が見られます。呼ばれて、大きな校長の方へ顔をあげてめざす子ども、校章のある手を見つめながら近づく子ども、足早の子ども、さまざまです。校章をぼくが左手の方に収めようとすると右手で受けて、右ポケットに入れる子ども、左手で受けて右手に持ち替えて右ポケットに入れる子ども、これもさまざまです。続いてポケットに収まったのを見計らって手を伸ばして握手します。この時もおもしろい光景です。右手で受けてポケットに入れ、左手を出す子ども、そのまま右手を出す子ども、左手を出して合わないことを判断してすぐ右手を出す子ども。子どもとぼくの手がひとつの空間でちぐはぐな動きで泳ぎます。「おめでとう!」の呼びかけに、「ありがと…」「ありがとう!」「ありがとうございます」「ありがとうございました」(と過去形)、口でかすかに「ありがとう」の動きの子ども。これもさまざまです。みんな違った個性でこの場にいるのだな、一人ひとりを大事にしていかなければな、と思いました。

圧巻は、閉まった幕が開くと、そこに2年生の子どもたちがはりきって「1年生を迎える表現」をする場面です。歌、ことば、荒馬の踊り、遊びうた、学んだことのペープサーでの紹介、コマ、なわとび、お手玉、けん玉、1年間で学び、活動してきたことをほんとうにはりきって表現するのです。見ていた子どもたちも身を乗り出して、眼開いて釘づけになっていました。きっと1年生の子どもたちに、これから始まる学校生活の喜びと期待が膨らんだことと思います。

教室では、担任と「よろしくね」の握手と1年生の名前が書かれた桜の花や飾り付きの名前の短冊を黒板に貼っていました。

小さな子どもたちとの握手に込めた想いと2年生や5年生の子どもたちとの出会いの気持ちを大事に膨らませていきたいと考えました。

(2012年4月13日 武藤 昭)

風59 さくらに そのまんかいを・・・

さくらの蕾(4月2日)スミレ(4月2日 自然広場の池)ホトケノザ(4月2日 広場の草地)さくら(4月3日)さくら・ソメイヨシノ(4月6日 校庭)幹からも満開に!(4月6日)さくら(4月3日)ほころんできたさくら(4月3日)ホトケノザ(4月2日 自然広場)白梅(3月29日)菜の花(3月29日 理科園)オオイヌノフグリ(3月29日 自然広場)自然広場の草たち

さくらに そのまんかいを…

2012年度1学期始業式のことば

みなさん、おはようございます。

2012年度、1学期の始まりの日です。ほんとうに久しぶりに校庭で始業式を行います。

みんなとても元気そうでいいですね。でも、ちょっとドキドキしていますか?

学校の桜もみなさんを待っていたかのように、いっぱいに咲いています。自然広場ではホトケノザ、オオイヌノフグリ、スミレが咲いています。春いっぱいで気持ちのいい朝です。詩人のまど・みちおさんは、「さくら」という詩を書いています。

さくら  まど・みちお

きれいだなあ/きれいだなあ/
さくらの つぼみが/ふくらんできた

と、おもっているうちに/もう ちりつくしてしまう
まいねんの ことだけれど/またおもう

いちどでも いい/ほめてあげられたらなあ…と
さくらの ことばで/さくらに そのまんかいを…

まど・みちお「花いっぱい―まどさんの詩の本」

草木がぐんぐん生長するように、みなさんもぐんぐん元気いっぱい成長しようとしています。

みなさん、進級おめでとうございます。

ここにいる2年生から6年生のみなさんは、1年進級して新しい学年になりました。新しい気分で新しい学年の生活をはじめましょう。ここに1年生はいません。入学式は12日です。2年生と5年生が代表して入学式に参加します。

6年生は、式場の準備の仕事を受け持ちます。5年生は、パートナーとしての活動を行います。1年教室の掃除や飾りつけもやります。4年生は、式場の背景の大きな絵・幕をつくる仕事を受け持ちます。2年生は、1年生を迎えることばや歌をやりますね。きょうからその練習があります。3年生は、去年の入学式で1年生を迎えたことを思い出すでしょう。みんなで温かく1年生を迎えたいと思います。

2012年度のスタートに当たって、三つのことをお話します。

一つは、みんなの願いや意見を出し合って、いまよりもっと楽しい学校を先生たちといっしょに創っていこうということです。自治の取り組みでも、願いを出し合って学校生活の決まりをみんなでつくってきました。大きな行事の運動会でも高学年が中心になって縦割りの競技や応援や係の仕事をつくってきたようにです。意見や願いがぶつかり合うこともあるでしょう。もっと楽しい学校を創っていくということは、このように、一人ひとりの意見をだいじにしていくこと、それをみんなでまとめあげていくことが大事だと思います。

二つは、新しい出会いを大事にしていこうということです。それは新しい人、先生やともだちといった人との出会いが考えやすいでしょう。クラス替えになる3年生や5年生の人たちにとってはわかりやすいでしょう。クラスは変わらなくても、ともだちの新しいところを発見したり、もっとみんなで力を合わせることも新しい学級・学年の出会いです。

出会いは人間ばかりでなく、新しく学んでいくことも大事な出会いです。ぼくたちにはわからないことや知りたいことがたくさんあります。クラスのなかまとともに新しく大事なことを学んでいってほしい、と思います。

三つは、少し長い間車椅子で生活しなければならないともだちがいます。そのことでお話しします。教室や廊下や階段など、車椅子で動きます。2学期に全校集会で、学校生活でのあそび方や走り回ることなど、みなさんに考えてもらいました。学期のはじめに車椅子で動くともだちがいることをしっかりと受け止めて、ともに気をつけて生活していってほしいと思います。

元気に一学期の生活をはじめましょう。これで始業式の話を終わります。

(2012年4月9日 武藤 昭)

風58 真実を見きわめる学びを!

紅梅・白梅(3月14日)桐朋幼稚園進級・修了式(3月14日)修了記念品、花ゆずの会。ありがとうございました。お祝いの獅子舞!健康で生きていくように頭をかじられます!卒業前に!5年生vs6年生の百人一首大会(3月12日、図書室)はげしい戦い!思い出の百人一首大会(3月12日)6年生の歌声(3月13日 卒業式予行)心をこめて歌う!(3月13日)第53回卒業式。入場(3月16日)5年生と6年生のリコーダー演奏「アシタカとサン」「未来を創る」卒業生の表現未来を創るために!くす玉でお祝い!くす玉に注目!卒業生も笑顔で拍手!退場。未来に向かって!担任も退場!想いを胸に!中村博先生とともに!(6西教室)丸山美樹先生とともに!(6東教室)卒業記念写真(6年東組)卒業記念写真(6年西組)卒業記念品「優勝旗」。ありがとうございました>

真実を見きわめる学びを!

―2011年度第53回卒業式のことば―

みなさん、卒業おめでとう!ご家庭のみなさん、お子さんのご卒業おめでとうございます。

東日本大震災から1年経ちました。新たな悲しみ、苦しさが被災地を覆っています。昨年は、卒業式に皆さんは在校生として参加できませんでした。担任の丸山先生、中村先生はじめ先生たちが皆さんのおくる気持ちにかわって表現しました。余震がいつ起こるか分からない、という状況の中で行われました。緊張の中にも心温まる卒業式を行いました。

本日、このようによく晴れた穏やかな日に卒業生と在校生が向き合って卒業式ができることを喜びたいと思います。

さて、卒業生のみなさんにいま卒業証書を手渡しました。少しはずかしそうに、しかし決意に満ちた表情でみなさんは、この壇上を歩いていきました。そのときの一瞬、自分の胸にうかんだものは何でしょうか?晴れがましい卒業の時にあたり、一言、励ましのことばをおくりたいと思います。卒業生に向けることばは、同時に自身に向けることばとして語りたいと思います。

一つは、自分を表現することを大事にしてほしいということです。新聞記事を読んでノートにまとめた人がいます。

「東日本大震災の津波から唯一残った岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」。あの日から1年、いろいろなことに耐え、被災地に希望や励ましを与え続けた。震災の津波で生き残った松は、7万本の中のこの樹齢約270年の一本だけだった。周囲が更地になっていく中、一本松は衰弱した。海水で根が傷み、葉は枯れた。昨年12月、日本緑化センターは、保護断念を表明した。あのようにすごい津波だったのに270年も生きている木が流されなかったなんてすごい。震災1年という時期に思い出せてよかったです。衰弱はかなしいけど、子孫を残す取り組みをしていると分かり、嬉しいです。」

また震災1年について表現した人もいます。

「東日本大震災から1年がたった。ぼくは起きた時はとても不安だった。その日から1年あっという間だった。ぼくは忘れん坊だからよけいにそう感じる。1年たったというのに、石巻や被災地の状況はよくならない。国の方からの支援や都道府県からの支援もあるけど、よくならない。10年後、20年後はどうなっているかわからない。…楽しくくらしている自分がいやになる。…」

震災というかつてなかった経験にみなさんも不安や心配を覚え、いまのままでいいのかと考えています。悩み考えることは貴重です。しかし、未来に向かうのはみなさんです。未来に向かって元気に生活する、楽しむことも大事にしていいのだ、と安心してください。

二つは、自分の頭でしっかりと考え、人間のこと、社会のこと、自然のことをたくさん知ってほしい。そして人間が生きていくということをしっかりととらえてほしい。

みなさんとは、修学旅行前に『トピックス』でさまざまな詩や文章を読みあい、考えてきました。平和記念公園では初めて平和ガイドの方がたに案内されて本川の川岸にも立ちました。修学旅行後レポートを書きあい交流しあいました。5年生に伝える活動もしていました。その中のレポートです。

「資料で見たこと聞いたことは本当に広島であったことなのだ、と思うと正直、こわいというか、信じられないというか、こんなに恐ろしいもう二度と起こらないようにしてほしい、と考えた。」

「今回、広島に来て、とてもいい経験になった。ぼくたちだけでなく、他の小学校の人たちにも広島に来てほしい、と思った。資料館に展示してあるものは、これからもずっとそこに置いていてほしい。原爆が落とされた広島がいまではとても活気のある町になったからすごいと思った。これからも広島を中心に学び続けたい。」このようなレポートを読み合う学習で次の感想も生まれました。

「レポートを読んで、一人ひとりがどんなことを書いているのかがよくわかった。やはり一人で勉強するよりもみんなで勉強した方がいろいろな考えが出るから、たくさんの人で勉強すると発見が多い。37人寄れば文殊の知恵!」と人と人がつながりながら学びあっていることがわかります。

最後には、何が真実なのか見きわめる力を身につけてほしい。学ぶということは、まさにこうした力を身につけていくことに他なりません。小学校で学んだ教科学習、総合、自治的活動の1時間1時間はそのための学びでした。
トピックスの最後の授業で学んだ石垣りんの『挨拶~原爆の写真によせて~』の詩の一節を読み上げたいと思います。(*当日は、5連のみを朗読)

挨拶―原爆の写真によせて―
石垣りん

あ、
この焼けただれた顔は
一九四五年八月六日
その時広島にいた人
二五万の焼けただれのひとつ

すでに此の世にないもの
とはいえ
友よ
向き合つた互の顔を
も一度見直そう
戦火の跡もとどめぬ
すこやかな今日の顔
すがすがしい朝の顔を

その顔の中に明日の表情をさがすとき
私はりつぜんとするのだ

地球が原爆を数百個所持して
生と死のきわどい淵を歩くとき
なぜそんなにも安らかに
あなたは美しいのか

しずかに耳を澄ませ
何かが近づいてきはしないか
見きわめなければならないものは目の前に
えり分けなければならないものは
手の中にある
午前八時十五分は
毎朝やってくる

一九四五年八月六日の朝
一瞬にして死んだ二五万人の人のすべて
いま在る
あなたの如く 私の如く
やすらかに 美しく 油断していた。
(一九五二・八)

何が真実かを、見きわめるために
学びつづけてほしい。
未来に向かって、力強く歩んでほしい、と思います。
卒業、おめでとう!

(2012年3月16日 武藤 昭)

風57 こころに刻んで!

1年前、このグラウンドに避難した(2012年3月11日)七頭舞のふるさと岩手県小本も津波の被害が大きかった。(3月1日)大地から力をもらって跳ねる!切り開く、開拓する!努力して篠笛も吹けるようになった!おはやしのリードも子どもたちが。百人一首大会 5年生vs6年生!(3月9日)向き合う5年生、6年生。素早い手!たくさんの応援が。卒業生が在校生に贈る「思い出の1さつ」(図書室 3月12日)一人ひとりの思いでの一冊!在校生にも読んでほしい!ぼくは卒業生にどんな言葉を贈ろうか!?3月11日の学校・・・

こころに刻んで!
~3.11東日本大震災1年~

わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
(辺見庸「死者にことばをあてがえ」・部分 詩集『眼の海』)

3月11日(日)にぼくは、やり残しの仕事のため学校に向かった。経堂駅のエスカレーターに乗り、すぐに急行に飛び乗った。成城学園前駅の階段すぐの所に電車はとまり、もっと前に行かないとエスカレーターはないな、と歩きかけたが、ちょうど1年前のこの日、電車が不通で10数年ぶりに自転車で通い、息切れして途中三回休んだことや、節電でエレベーター、エスカレーターが使えず、目の前の51段ある長めの階段を数カ月使ったことを思い出した。息切れして、足がパンパンになったこと、心臓がバクバクしたことも瞬時に思いだした。

それから次第に慣れてのぼれるようになった階段も、いつのころからか普段から使用していたエスカレーターを使っていた。電気の使用を制限することも、無駄に使用することは家でも学校でも極力避けるようにしているが、身体に関わることについては便利なもの、慣れ親しんだものを平気で使っている弱さも感じてしまう。

今日3月11日は大震災、大津波、原発事故の災害から1年を迎える日だ。東北の被災地では、追悼の祈りが捧げられている。新たな悲しみが映像にあふれている。「帰ってきてよー。毎日顔は笑っているけど、心の中は寂しいです」と老いた女性が語っていた。仮設住宅の隣につくられた鎮魂のお地蔵さんの赤い頭巾に積もった雪を払う老人がいた。「見つからない人は冷たかろうに…」と。

死者1万5854人、行方不明者3155人(3月10日現在)、避難者34万3935人(2月23日現在)。死者、行方不明者、避難者の数十倍、数百倍の人たちの癒えない悲しみやつらさや不安が渦巻いている。「いま伝えたい 千人の声」(朝日新聞記事)は千年先まで支え合っていけるように、という思いでこの日まで連載し続けたそうだ。こころに刻むためにいくつかを。

「津波にのまれて、丸太につかまっているところを、何人もの人に引っ張り上げてもらった。命の恩人です。今は三女のいる盛岡市にいますが、生きているうちに感謝を伝えたい。一度、大槌に帰れたらな」(大槌町、石崎ムツさん80歳)。「阪神大震災の犠牲者を追悼する「1.17のつどい」に招かれて参加しました。震災を忘れてしまっては、同じことを繰り返すから、追悼のつどいも継続していくことが大切なんだと実感しました」(名取市、遠藤達男さん75歳)。「家も家族も無事だったから、寂しさを誰かに打ち明けることはできない。ひっそりと暮らそうと思う1年だった」(いわき市、佐々木ユキ子さん70歳)。

この1年、学校として学園として震災に関わってさまざまに取り組んできた。幼稚園、小学校の「緊急時の対策」の改訂、緊急時の安全対策(非常食、非常用毛布、簡易トイレ等)、小学校の「調布市のメール配信」の開設(4月からの導入)、「子どもの健康を守るために」の発信、放射能測定機器の購入と測定、そして「初等部通信」の発信。この園長・校長コラム「風」も3.11東日本大震災、原発事故以降、書き綴ってきた。もう一度子どもや授業や教育の原点から見直し、構想し、実践していくことを志向している。それらは「風35 希望を胸に」「風36 九ちゃんの歌声」「風37 風になる」「風38 風となる授業(1)」「風39 風となる授業(2)」「風43 七夕伝説 」「風46 「本当のさいはい」とは?」「風49 さくら保育園への手紙」「風51 懸命に子どもを守り育てようと」「風54 白いリコーダー」に表現されている。

2月末、3月初めにコンサートに出かけた。横山幸雄の三大ピアノ協奏曲のコンサート。指揮者・ピアニストの小林研一郎とその仲間たちのコンサートである。音楽家も3.11について深く考え、曲目についてもさまざまに考えていることがわかった。アンコール曲も鎮魂と祈りを込めたものが演奏される。コバケン(小林研一郎の愛称で親しみを込めてそう呼ばれる)とその仲間たちが奏でるチャイコフスキーの『弦楽セレナーデ』は、下降する主題の主調音がまさしく悲哀や絶望を表現し、暗く重く深い感情が垂れこめる。後半の楽章は、鎮魂の優しさや悲哀のなかの希望や願いが奏でられる。作曲家は無論、大震災を予感したわけではなく、ロシアや自己の人生のなかでの悲哀、絶望を曲の中に込めているのだろう。大震災からやがて一年のその時期に、悲哀に満ちた旋律や鎮魂や希望の表現に触れることができたことはよい体験であった。

被災地や被災者に生な形でふれ合うこともできず一年経った。文章や映像から感じ考えた少しの想いを表現しているだけだが、そうした想いをことばによって発信できたことは、何か発言しなければならないという気持ちからである。同時にこうしたことば、悲哀や絶望、悲しみや怖れ、共感や忘却などことばを発することによって何を生みだすのか、と問わずにはいられない。何をことばによって紡ぎだしていけばよいのか、ことばを失なってしまう想いもある。メディアにあふれ出る「絆」「支え合う」「がんばろう」「げんきをとりもどして」などことばにもそのようなことを感じてしまう。

それでもなお、大震災、大津波、原発事故が起きた事実とその災害、犠牲そのものを忘れず、こころに刻むことは一人の人間として誠実におこなっていきたい。

(2012年3月11日 武藤 昭)

風56 金魚救護作戦!

二匹の金魚(自然広場の池 2月10日)今は緋色の金魚が・・・(2月10日)水槽に隔離された白まだらの金魚(2月10日)塩水浴の金魚ぶくぶくによってくる金魚横倒しになった金魚念のために緋色(赤の子と子どもは呼んでいる)もチェック(2月10日)赤の子を見ている金魚医(?)永田さんがすくっている水槽に入る白まだらの金魚(白の子と呼んでいる)尾びれに充血がみられる!バケツのなかでも塩水浴永田さんの塩を使って塩水浴の水槽を作る(10月10日)

金魚救護作戦!

「素手ではだめです!」

自然広場の池に二匹の大きな金魚が泳いでいる。緋色と緋色に白まだらの二匹である。体長25センチくらいの堂々とした金魚だ。この金魚は、元桐朋学園女子部の唯一の保健室担当医師であった谷絹子先生(*)の家の池で育った金魚である。谷先生のご主人が35年ほど前に買ってこられて、大事に育てたものだ。

(*)谷絹子先生は、中野光著『初等部誕生物語』のp29に「二回生の健康診断(1955.1.25)医師は谷絹子先生」のキャプションでお写真が紹介されている。

その金魚二匹がなぜ自然広場の池に来たかということだ。谷先生のお住まいは学校の南側にあり、元女子部門園長・校長・理事長の故生江義男先生のお宅の隣にある。谷先生は、この1月末にご高齢のためお亡くなりになった。ご主人もすでに他界されていて身寄りもなく、お宅の庭の金魚が残されてしまった。先生のご遺言で金魚は深大寺の池に放してほしい、というものだったが、お寺の許可が下りず、市からのヘルパーさんが定期的に来て餌をあげていたという。

学校の近くにお住まいの保護者から谷先生の訃報や残された金魚の話を聞き、先生が永年お勤めになっていた学園でなんとかしましょう、とお返事した。女子部門の代表者が集まる会議にもその話を通しておいた。その時は金魚か鯉かわからなかったので、鯉ならば中高本館の中庭の池と考えていた。

2月9日の木曜日の午後に谷先生の金魚・鯉二匹は水槽で運ばれてきた。来る前に魚類にも詳しい理科担当、5東担任の岡部孝司先生にも相談しておいた。「鯉(*)だったらフナの仲間の金魚(*)をつついて大変だから、本館中庭の池がいい。金魚だったらフナや金魚がいる自然広場の池に放そう」と岡部先生。岡部先生も持ってこられた水槽の二匹を確かめてくれた。「金魚だ。自然広場に…」ということになり二匹は自然広場の池に放された。環境が違ってか、金魚は放したところからほとんど動かなかった。

(*)鯉は、コイ科コイ属。金魚は、コイ科フナ属。金魚の寿命について調べてみると一般的には8~15年という。ただし、エサのあげ方、環境などにより30年くらい長生きの金魚もいるという。冬ヒーターなどなしで過ごした金魚ほど適応能力が高く長生きとなるようだ。この金魚はかなりの長命ということになる。

自然広場の池などをいつも気にかけてきれいにしてくださる永田正次さんも大きな金魚が来て喜んでおられた。永田さんとぼくは飽きずに大きく長生きの金魚を眺めていた。「癒されますねえ…。子どもたちも喜ぶでしょうね」などと言いながら」眺めていた。仕事の合間、気になって池に行ってみると高い確率で永田さんと出会った。永田さんも気になっているのだ。

白いまだらがあまり元気なく、時折横になったり、逆立ちのようになったりで永田さんもぼくも気になってきた。「まあ、寒いのと環境が変わったからでしょう」などと呑気に言いながら、温かい春を待つことにした。

翌日の金曜日、職員室に入る前に池に行くと、二匹は寄り添うようにじっと池の中にいた。ああ、慣れたのだと思って安心していた。1限2限の5年生との国語の授業では「見上げれば がれきの上に こいのぼり」の俳句に付け句して短歌にしようの学習の前に、ニュースとして自然広場にやってきた二匹の金魚について手振りを交えて話した。鯉つながりではないのだけれど。

昼休み、二匹の金魚に子どもたちが群がっている。5年生も数人ようすを見に来ていた。放課後にまた行ってみると、5年生のアイさん,アキさん、あやさん(いずれも仮名)がいて心配そうだ。アイさんは、金魚すくいの名人でお祭りでは30匹くらい取るという。その金魚を飼っているという。そのアイさんが、厳しい口調で永田さんやぼくに言う。

「この金魚病気です。えらも一定の間隔でなく不規則に動いています。尾も元気なく垂れています。曲がっています。横になったりするのは苦しいからです。尾も充血しています。早くすくって別の入れ物に!塩はありますか?」

「アイさんは金魚医だね!」などと話していると、「早く!」と檄を飛ばされ、永田さんは猛暑の夏に使う塩を取りに急いだ。ぼくは美術倉庫の鍵を持ち出し、中にある大型のプラスチック水槽とエアポンプ一式を用意。あやさんアキさんたちは水槽にバケツで池の水を何杯も汲んだ。

ぼくが網で白まだら金魚をすくおうとすると、「尾からでなく、頭の方からそっと」と注意。届かなくなって永田さんに手渡しすくい取って、網から素手でつかもうとすると、「素手ではだめです!人間の体温で金魚がやけどします!」とビシッと言われてしまった。

金魚は、体内に数パーセント(0.6%位)の体内塩分を持っており、真水に育っていて体調が悪くなると、塩分が外に出たり、水分が体内に入ってきたりして体力をさいて、苦しくなる。体内の塩分(濃度0.6%)と同じ濃度になるくらい塩を入れると、金魚にとって一番快適なのだそうだ。これが塩水浴とか塩浴という療法だ。このこともアイさんに教わった。

下校近くに職員室に金魚医のアイさん、金魚看護師のアキさんが図鑑を持って急ぎ足で入ってきた。「分かりました。マツカサ病と穴あき病です!」ときっぱり言って図鑑のページを示した。ぼくも同じころインターネットで「金魚の病気」を調べていた。

隔離されている水槽をみると、軽くうろこが逆立ち、松カサのようになり、体側に小さい白い穴のようになっているのがかすかに見える。「観パラ、グリーンFが効くようだね」とにわか勉強のぼくは言ってみる。「明日、島忠で買ってこよう」。塩水浴が効いているみたいで、金魚医は「えらの動きが規則正しいです。よかった!数日は絶食にしましょう!」、と毅然と本物の医師のような口調で言われ、ぼくは患者の家族のように安堵していた。

それから何度も祈るような気持ちで水槽に行った。次の土曜日も「文化セクションのコンサート」の合間、白まだら金魚を見に行った。今は尾の振り方も穏やかでえらも規則正しい。

(2012年2月11日 武藤 昭)

風55 愛と祈りのかたち

「帰ってきたアケラカン」(1988年 石膏 小学校校長室・応接室)台座の裏に作品名、制作年、署名がある。「ある一つの世界 1」(1957年 白セメント 自然広場)自然広場におかれた「ある一つの世界 1」「宇宙」(1963年 ガラス・モザイク 中高本館ロビー壁面)「飛躍」(1963年 白セメント 中高本館中庭)「祈り」(1963年 ブロンズ 中高本館中庭)「人生は流れる水のように」(1967年 木 ポロニアホール・エントランス)「祈り」(1967年 木 ポロニアホール)「アケラカン」(1954年 石膏 ポロニアホール)「対話」(1962年 木 ポロニアホール)「ある一つの世界 愛-限りなく」(1990年 石膏 ポロニアホール」「ある一つの世界 2」(1957年 白セメント 芸術短期大学前)

愛と祈りのかたち

~「お子たち健やかに!」

にじいろ紙フーセン 塚原 スガノ /にじいろ紙フーセン/千コ/青空に舞いながら/ひとつになった//宇宙にじいろ紙フーセン/三千世界の/お子たちを/すっぽり包み/あらそいの無い/世界で/守りたい!(2005年5月 青山病院にて)」

塚原スガノ先生(彫刻家としてのお名前は須賀野チイさん)は、2012年1月14日に永眠された。享年102歳であった。塚原先生は1909年(明治42年)佐賀県小城郡三日月村(現・三日月町)に生まれ、1927年に東京の美術大学に入り、卒業後他でのお仕事を経験され、1944年(昭和19年)山水高等女学校(現・桐朋女子中学高等学校)、美術科教諭になられた。1949年(昭和24年)に二科展彫刻部に初入選。その後、数十回にわたり作品を出品された。1960年(昭和35年)に桐朋学園の専任を退職。彫刻に専念するために美術科講師となられた。

塚原先生と小学校とのかかわりは、1955年(昭和30年)1月の第一回生の入学試験の面接試問に協力いただいたことからである。このことは中野光先生(当時桐朋女子中学校高等学校の教員で桐朋幼稚園、桐朋小学校の創立に尽力され、小学校一回生の担任になられた)が著された『初等部誕生物語』(2005年11月20日発行 桐朋学園初等部ブックレットNo1)の28ページに試験風景の写真が掲載されているのでわかった。

また中野先生からのお話では、小学校創立当初、塚原先生から、「小学生に粘土を教えたいのだけれど…」ということがあり、「あなたは、子どもたちが大好きだから、どうぞ教えてください」となり、数年、小学生に粘土を教えていただいたようだ。「子どもたちからは『粘土の先生、粘土の先生』と慕われていました」とのことだった。

もうひとつ、冒頭の『にじいろ紙フーセン』の詩は、塚原先生がご健在の2005年、初等部の創立50周年記念の年に、この詩とお便りとたくさんの紙風船を贈ってくださった。子どもたちへの創立記念の式典での話のなかでこの詩は朗読された

先生のご厚意に、2006年の100歳のお誕生会に、わたしは先生の名前を織りこんでお祝いの詩を作って、会に参加される美術科の浅井直江先生に託した。「須賀野チイ先生のアクロスチック /す ばらしき 100歳の お誕生日!/が っこうに あまた さくひんが のこされ/の どかに のびやかに 学び舎に とけこんで/ち いさな 子から 大きな人にも 愛される/い つまでも お元気に おすごしください/ 2009年4月12日 初等部の子どもとともに 武藤 昭」

自然広場の中央に白くまろやかな彫刻がある。塚原スガノ先生=須賀野チイさんが創られた彫刻『ある一つの世界 Ⅰ』(1957年 白セメント)である。学園内には彫刻家・須賀野チイさんのたくさんの作品がある。小学校の校長室・応接室には『帰ってきたアケラカン』(1988年作)。また、ポロニアホールのエントランスには石膏、白セメントのほかに木、ブロンズの作品が置かれている。中高の本館中庭には、大作『祈り』(1963年 ブロンズ)、『飛翔』(1963年 白セメント)が大空に向かっている。本館内部の大きな壁面には、『宇宙』(1963年 ガラス・モザイク)が広がっている。わたしは作品集(*)によってこれらの作品の存在を知った。* 須賀野チイ作品集『愛と祈りのかたち』1997331日 桐朋教育研究所発行)

須賀野チイさんの作品集の標題は、「愛と祈りのかたち」である。「愛と祈りのかたち」は生涯にわたって到達した彫刻作品の主題であった。作品集の自作年譜には、「帰ってきたアケラカン」「ある一つの世界」に寄せて、次のような表現がある。「1954年作 絶望のアケラカンは、逃亡した当時行方知れずになっていた。30数年後に戻ったアケラカン(引用者注:校長室・応接室に展示の作品)は、受容的な丸い姿で活き活きと甦っていた。/1953年作ある一つの世界は、無限宇宙に繋がる愛の世界であったこと。愛は生きとし生けるものの生命であることを、今はひとり言するのでなく、多くの人に訴えようとしている。/個人も世界も対話し、美しい愛の花を限りなく咲かせることができるように―(自作年譜 1988年・昭和63年)」。若き日からの絶望や挫折のあと、こうした愛と祈りの世界に先生は到達した。

お通夜の時、ご長男のご挨拶のなかにもそのことが触れられていた。100歳の誕生日の時のメッセージは、「お子たち健やかに!」であったという。

(2012年1月31日 武藤 昭)

風54 白いリコーダー

顔寄せて!(調べる学習・3年生図書)本で龍!(小学校図書室・壁面装飾)輪になって(幼稚園ばら組帰りの会)みんながそろうまであやとり(ばら組)おせち料理(2年生の冬休みの工作)担任自作のジャンピングボード(1年生教室)しょうがつあそび(ゆり組・1月11日)東京に初雪(小学校グラウンド・1月18日)初雪が舞う!(幼稚園・飼育舎)雪の中、飼育当番。一人あやとり(幼稚園ばら組)

1.17阪神大震災―3.11東日本大震災

1月17日は1995年に起きた阪神大震災から17年をむかえた日である。現地では、追悼・鎮魂の行事が震災の起きた5時46分から始められた。灯りを作る竹筒の中には「絆」「生きる」「復興」「祈り」「夢」などの文字がロウソクの光にあぶり出されていた。同じ追悼行事は東日本大震災の被災地でも行われた。鎮魂の灯りが東北でも絆の思いを込めて灯された。神戸などの被災地では「1.17」の追悼の灯りとともに「3.11」の灯りがともり、被災地のつながりをしめす気持ちが込められていた。

昨年の同じ時期、ぼくは、コラム「風28 また君に恋してる」(2011年1月25日)を書き、1月17日に3年生の教室に代講に行って、阪神大震災16年目の話や自身の親戚や知人の被害について語っていた。また、続く「風29 風の声」(2011年2月4日)では、風28号の読後感を書いてくださった保護者の支援物資のことや16年前の学級や学校の被災地への支援について書いていた。それから約1ヶ月後東日本大震災が起きようとは思いもしなかった。

東日本大震災、大津波による災害、連鎖した原子力発電所事故によるさらなる災害を目の前にして、私たちはどうすればいいのか考えてきた。基本的には、自分たちの教育現場、仕事の領域で、しっかりと保育実践や教育実践を深め豊かにしていくことが重要である、と考えた。園長・校長コラム『風』にも震災、原発事故に関わって、もう一度子どもや授業や教育の原点から見直し、構成していく志向を紹介している。それらの一部は『初等部通信』にも反映させてきた。「風35 希望を胸に」「風36 九ちゃんの歌声」「風37 風になる」「風38 風となる授業(1)」「風39 風となる授業(2)」「風43 七夕伝説」「風46 「本当のさいはい」とは?」「風49 さくら保育園への手紙」「風51 懸命に子どもを守り育てようと」などである。

2011年9月25日にケニア人女性ワンガリ・マ―タイさんが永眠した。マ―タイさんは、2004年ノーベル平和賞を受賞された人で、2005年来日されたとき、日本語の「もったいない」を世界共通語「MOTTAINAI」として広めることを約束した。環境分野ではじめての平和賞受賞で、資源の有効利用の3Rを一言で表す言葉として「MOTTAINAI」キャンペーンを行っていった。このことをある文章から想起した。

また、金子みすゞの詩「遊ぼうっていうと/遊ぼうっていう」で始まる「こだまでしょうか」は、震災後の民放の自粛コマーシャルで何度も流れてきた。同じみすゞの詩「鈴と、小鳥と、それから私」には、「みんなちがってみんないい」というあまりにも有名なフレーズがあることを、ある文章から想起した。それは、昨年12月に開かれた桐朋小学校の音楽会の感想文「白いリコーダー」が出ている学級通信を見た時にである。

白いリコーダー / 最前列で少し恥ずかしそうに白いアルトリコーダーを出す息子を見て、3.11東日本大震災のことを思い出しました。家には上の子が使っていた白いアルトリコーダーがありますが、3月はじめに新しいアルトリコーダーの注文用紙が配られ、音楽会もあるのでやはり皆と同じものを買おうと思っていました。その矢先、3.11の大震災が起こりました。連日津波に流されて町の様子や電気が自由に使えなくなった生活の中、やっと新学期が始まりました。再びリコーダーの注文のお知らせが来た時、息子が、『家も全て流された人がいるのに、家にアルトリコーダーあるのに、新しいのを買うのはいけないと思う』、と言い出しました。皆と同じにした方がいいのか、少し悩みましたが、息子の言う通りだと思い、家にあるのを使うことにしました。…」

震災を通して人間の生き方を考える、根底のところで社会や文明を考えることに繋げていく、ということを識者がさまざまに述べている。ぼくはこの「白いリコーダー」の少年や家族のなかで自分の生活に根ざした形で、物そのものを大事にする、同じでなくていいんだ、という思想が幼い少年のなかに芽生え、実践している姿に心を動かされた。そう感じたのは、実は自身の少年時代にはこれと真反対のことを考えていたのを覚えているからだ。

物がない時代に育ったぼくは、物があることを望み、物を気軽に消費ができないことの辛さや妬みさえ感じて生活していた。がまんをすることもまた。自身の少年時代を書いたものを引用しながら、当時(1950年代前半)の少年の感情をふり返ってみたい。

「学齢前、母はぼくを連れて高田馬場の編み物学校に通ったことがあった。また、引揚寮の近くの三角地帯の空き地が売り出されたころ、電動のミシンを買うか、その土地を買うか父と母は迷ったという。結局、その日の生活に直結する「ミシン」を選択したのだ、と自嘲気味に母が語ったことがある。その電動ミシンで着るものをよくつくってくれた。それはネル地のシャツやパンツ。たいへんだなとも思ったが、同時に困ったこと、恥ずかしかったこともあった。

それは、4、5月にある「身体検査(当時そう呼んでいた)」のとき、脱ぐのをずいぶんためらっていた。からだ全体が恥ずかしくてうす赤に変わったこともあった。みんなと同じでないことが、なんだか気恥ずかしかった。毎年くる身体検査が苦痛だった。

遠足も写生会も嬉しさの反面、やはり気になることがあった。遠足や写生会の水筒は、市販のものでなく、手作りのものだった。父が飲んだと思われる当時の『トリスのポケット瓶』を大事に取っておいて、瓶が入る布製の袋をつくり、肩から吊るす布紐まで付けられていた。

写生会の画板もこれまた市販のものでなく、ベニヤ風の合板を画用紙大に切り、紙挟み(*いまでいう目玉クリップ)をつけ、肩ひもを付けて、背負わされた。当時、ほとんどは市販のアルミやセルロイドでつくられた水筒を持っていた。画板も同じである。

池袋の「キンカ堂」によく連れられて、生地を買いにいった。その帰り、暑い日などたまに「生ジュ-ス」を飲ませてくれた。そして極稀にそのころ流行っていた「ソフトクリ-ム」が口に入ることもあった。「食べるかい?」「寄っていこうか?」の母のことばを、いつも待っていた。でも、自分から「食べたい!」などいったことはなく、がまんしていた。」(『ネルのシャツと 岩波少年文庫と榮太樓のカンカンと チュウチュウと』1996年5月28日 2年西組懇談会資料)

物のない時代に育ったぼくの、みんなと同じがいいという感情と、物の溢れる時代に育っている白いリコーダーの少年の同じでなくてもいいんだ、という感情は、明らかに後者に高い倫理性がある。

「白いリコーダー」の文章後半には、「なぜ白いリコーダー…?」と回りの子どもや大人から言われたことが書いてあった。みんなと同じでないと何か変に感じる社会の風潮があるようだ。「白いリコーダー」の少年の想いには爽やかさや潔さとともに、高い倫理性をつよく感じたのだ。

(2012年1月18日 武藤 昭)

風53 希望を持って生きる!

司会は代表委員会の子ども。「これから2011年度3学期の始業式を始めます!」「なぜ、サッカーボールを持っているのか不思議に思っている人はいませんか?」交通整理員の木村さんの話。「車に気をつけて!飛び出しに注意!旗と笛の合図を聞いて!」真剣に聴いている!「続いて安全担当の束原先生の話です。」「バスや電車のなかのマナーについて話します」始業式後、一輪車の子どもたち(2階テラス)二重跳びに挑戦!どんどん続くぞ二重跳び!

希望を持って生きる!

~2011年度3学期始業式の話~

みなさん、おはようございます。そして、あけましておめでとうございます。2011年度、3学期の始まりの日です。学校は2011年度と呼びますが、2012年の新しい年の始りですね。

今年のお正月はあたたかな、おだやかな日が続きました。しかし、北日本や日本海側では大雪になっています。いつもよりたくさんの雪が積もっているようです。被災地のお正月は寒さや雪の中、避難所や仮設住宅で迎えた人がまだまだたくさんいます。昨日の成人式では、「親友と一緒に成人式に出よう、といっていたのに津波に流されてれてしまってできなくなってしまった」、と涙を流している青年がいました。その親友の写真をもって参加する青年がいました。このところ寒い日が続いています。今日は気温3度の予報でした。日中も8度位で気温が上がらないといいます。昨年の暮れから乾燥しているので喉をやられそうです。風邪などひかないように元気に過ごせるといいですね。

今年は辰年。干支でいうと辰・龍(タツ・リュウ)の年です。もともと「辰」の意味は「ふるえる」とか「動く」の意味を持っていて、「振動」「地震」など「辰」が入っていますね。「辰」は「動いて伸びる」「整う」という状態をいうのだそうです。草木が盛んに成長して形が整うという意味だそうです。ちょうど成長して賢くなっていくみなさんのようです。この「辰・振」をなぜ神話上の「龍・竜」にあてたのかは分からないようです。いただいた年賀状には、龍のイラストや版画、手書きの龍のものがたくさんありました。ありがとうございました。

年賀状のなかに、「学校はとても楽しいです」と書いている人が多かったのは嬉しかったです。「今度の音楽会はぼくが4年生になったときだ。楽しみです」と音楽会のことを書いた人もいました。「なわとびがんばります」「二重跳びに挑戦します」と書いたのは中学年の人。6年生からは、「3月で卒業です。のこされた小学校の生活を大事に送ります」とありました。

3学期が今日からスタートします。いつもお話していますが、「自分や自分たちの生活のめあてを持って」「希望を持って生きること」ことを大事に考えながら生活していきましょう。

さっきからサッカーボールをなぜ持っているのだろう、と不思議に思っている人はいませんか?今朝4時にスイスから入ったニュースで日本のなでしこジャパンの沢穂希選手が2011年のFIFA(国際サッカー連盟)が選ぶ年間最優秀選手賞に選ばれたということです。アジアからは初めて選ばれたのです。沢選手は小学校のころから府中のサッカーチームに入って練習を積み重ねたといいます。サッカーが上手くなりたいと希望を持って練習を行ってきました。同じく年間最優秀監督賞にはなでしこジャパンの佐々木則夫監督、男子のバロンドール(最優秀選手賞)にはアルゼンチンのメッシ選手が3年連続選ばれました。

この三学期は2012年1年のスタートの時期であるともに、3学期の学年のまとめの時期でもあります。クラスでは「まとめの会」「発表会」なども行われるでしょう。クラスで取り組む「劇」の発表、そのほかの発表などをぜひ隣のクラスや他の学年にも呼びかけてほしいと思います。みんなの表現をみんなで見合っていくことができたらいいな、と思います。

6年生はこの学期が小学校生活最後の締めくくりの時期です。残り少ない小学校生活を充実したものにしてください。

それでは元気いっぱい3学期の生活をはじめましょう。これで始業式の話を終わります。

(2012年1月10日 武藤 昭)