初等部 園長・校長コラム「風」

風48 生存者一名

お世話になった平和学習ガイドの方がた。永原富明さんと一緒に。原廣司さんを囲んで記念写真。旧市街地の地表面はここだった。市民の願いで遺された。三登浩成さんと一緒に記念写真。平和の灯のところを三登さんと歩く。峠三吉の「序」の詩の前で。峠三吉の詩碑。原爆詩集の「序」の詩。二本の被爆アオギリ。生存者が奇跡的にいた地下室。地下室で永原さんから説明を聞く。現観光協会・レストハウス(旧燃料会館)の案内板。旧大正呉服店地下室の説明。動員学徒慰霊塔の前で山口恵司さんから話を聞く。動員学徒慰霊碑の裏面(静岡県の学校が多い!)動員学徒慰霊碑の裏側で説明する永原さん。原爆投下の目標だった相生橋(元安川岸より見る)。元安川岸で当時の茶碗のかけらを見る。ガイドの北川明美さんから説明を聞く。平和学習ガイド・永原富明さんの自己紹介。原爆ドーム 世界遺産の説明碑。6年生と平和学習ガイドの方との対面。爆心地=島外科の上空を指さす丸山先生。始めて元安川の川岸の降りる。原爆ドーム直下。

生存者一名

広島修学旅行記

10月21日(金)修学旅行二日目は、広島平和記念公園の“碑めぐり”が中心の活動であった。いつもは事前に平和記念公園の原爆ドーム、原爆の子の像、原爆供養塔、峠三吉の「序」の詩碑などを学習し、実際の像や碑を見学していくことを行っていた。

今回は、事前学習を行い、加えて「被爆証言の会」「ピースナビゲーター」などの平和学習ガイドの方たちが子ども12名に1名付いていただき“碑めぐ り”を行った。教員も一名ずつ付いてともに学んだ。私たちは平和記念公園の碑・像について紹介されているいくつかの書物から学び資料を作ってきた。書物か ら学ぶことはもちろん重要なことではあるが、被爆体験された方たち、被爆二世の方たちから碑の意味や背景について現場に立ってうかがえたのは、新しい発見 であり、新しい学びであった。

私たち13名を案内してくださったのは、ピースナビゲーターの永原富明さんだった。永原さんは、1946年(昭和21年)生まれで、被爆二世である、と自己紹介された。分厚いクリアーファイルに写真、資料、詩などを挟みこんでいた。

原爆ドーム前での自己紹介の後、はじめに案内されたのは、元安川の川岸であった。1945年8月6日原子爆弾が落とされた直後からこの川にいっぱいに遺体がうごめいていた。川岸に今でも当時の茶碗のかけらが残っていた。子どもたちはそうした現場に立ち永原さんの話に耳を傾け、茶碗のかけらを記念に持ち帰った人もいた。向こう岸に黒い部分が見えるのは、満潮時にはそこまで水位が上がるということだ。見学の時間は干潮時で普段はなかなか下りることがない川岸に降りることができたのは幸いであった。(川岸での写真)

いつもはあまり訪れない碑に案内された。原爆ドームに程近い“動員学徒慰霊塔”であった。動員学徒で犠牲になった中等学校、高等学校、女学校の生徒は圧倒的に広島県が多いが、全国から学徒疎開の生徒が広島の地にも疎開をしていた。慰霊碑裏の前で、永原さんがこう子どもたちに尋ねられた。

「犠牲になった学徒は圧倒的に広島県の中等学校・高等学校の生徒が多いのはわかりますね。しかし、なぜ静岡県の学校が次に多いのか、みなさんはわかりますか?」(慰霊碑の写真)

この質問にはだれもわからなかったし、想像することもできなかった。

「アメリカのB29など爆撃機は、太平洋上から日本一の富士山を目印に飛んできて、さまざまな都市を爆撃し、帰路にはまた富士山を目印に飛び、爆撃に使わなかった爆弾を燃料節約のため静岡に落としていった。それで、静岡県の学校では学徒疎開が多く、この広島にも疎開し動員学徒として広島の地で被爆した生徒が多かったのです。」

慰霊碑のおもてを見ることはしても、裏面をまで見ることはなかなかしない。このように現場に立って平和学習ガイドの方からその碑の意味や見えない部分を説明されると、戦争時代の史実が繋がりを持って見えてくる。永原さんから教えられた新しい発見である。

私たちが碑めぐりした現在の平和記念公園は、原爆が落とされる8月6日午前8時15分の前まで、太田川の三角洲として成り立ち、本川と元安川に挟まれた市街地であった。住宅が並び、店舗があり、鉄筋の建物がある普通の街であった。8時15分に爆心地(島外科)上空580メートルで炸裂した原子爆弾によってその街は壊滅的に破壊された。被爆後4年経った1949年広島平和記念都市建設法の制定があり、1950年に工事着工、1954年に完成した。この爆心地を平和記念公園として復興させることとなった。

案内されたのは、韓国人原爆犠牲者慰霊碑のすぐ近くの“被爆した墓跡”であった。(墓跡の写真)この遺跡は、「慈仙寺にあった広島藩浅野家の御年寄岡本宮内の墓であり、原爆により墓の笠あたる相輪が飛び崩れた」と説明文にあった。注目したのは、この遺跡の地表面が被爆前の旧市街地の地表面であったことだ。現在よりも1メートルは低かった。この地で人びとは原爆の被害にあったのだ。平和記念公園を建設する時に焼け野原の地表面に盛り土をしたという。市民のたっての願いで当時の地表面を遺したのだ。その地に立つことは初めてであったし、それらのことももちろん知らなかった。

永原さんの案内で一番の驚きは、元安橋のすぐ近くの現在記念公園レストハウス、観光案内所になっている建物での出来事だ。この建物は1929年に“大正屋呉服店”として建てられ、1944年に“広島県燃料配給統制組合”となっていた。爆心地からわずかに170メートルしか離れていない。この旧市街地(現平和記念公園)は原爆の直撃で壊滅的な打撃を受け、生存者は全くいない、と思っていた。ところがこの統制組合の地下室に生存者が一名いたのだ(地下室や案内板の写真)。私たちは許可をいただき当時のままの地下室に降りることができた。ヘルメットをかぶって。

生存者は、野村英三さん(1982年に84歳で他界)であった。当時47歳。広島県燃料配給統制組合の職員で、原爆投下された時には、地下室に書類を取りに降りており、奇跡的に生き延びることができた。生存者一名。

「広島原爆戦災誌」第2巻(1971年9月広島市発行)には、野村英三さんの『爆心に生き残る』と題する手記がある。前半部を引用しておこう。

「ドーンというかなり大きな音が聞こえた。とたんにパッと電灯が消え、真っ暗になった。(引用文中略)自分は階段の直ぐ下に立っていた。上がろうかと思って足を階段にかけた。そして、2、3歩上がりかけたが、どうも変な具合だ。階段の状態が無い。板切れや、瓦や、砂や、ごちゃごちゃに混ざった坂になっている感じだ。柔らかな俵のようなものが足の下にある。おかしい。両手でそっとさわってみた。半分位砂の中に埋もれている。あっ人間だ!抱え起こして、声をかけたりいろいろしてみたが、がっくりしていて、もはやこと切れているようだ。とたんにからだがふるえてきたようだ。奥の方から闇をついて、助けてくれーと男の声だ。その声がつづいて聞こえてくる。そして直ぐ泣き声にかわった。オオーン、オオーンと。自分は急いで登りつめたとたんに、頭をゴツンと打った。手でさわってみるとコンクリートの壁らしい。両手で押してみたが、ビクともしない。出られない!(引用文中略)出られねばここでこのまま埋もれてしまうのか。そのときゴーという水の音が聞こえてきた。この地下室には8インチの水道管が元安橋の裏側を通って入ってきている。そうだ、水道管の破裂だ!どうしよう、死は時間の問題だ。(引用者後略)」

水道管の破裂で水が溜まりだし、暗く狭い地下室から、黒い煙で覆われた市街地にやっと立てた。その安堵と恐怖は計り知れない。

生存者一名の地下室に立ち、野村英三さんの恐怖を思ったが、緑あふれる記念公園の明るさに戻ってみれば、その恐怖や驚愕を想像するにはあまりにかけ離れていた。しかし地下室に降りることによって地獄のようなありさまを想像し、痛みを共有する、という想いに近づこうとの意志を持つことはできた。

永原さんたち平和学習ガイドの方がたの献身的な案内により、原爆や平和について新たな発見や新たな想いを抱いた“碑めぐり”であり、修学の旅であった。

(2011年11月6日 武藤 昭)