
風56 金魚救護作戦!
金魚救護作戦!
~「素手ではだめです!」~
◆
自然広場の池に二匹の大きな金魚が泳いでいる。緋色と緋色に白まだらの二匹である。体長25センチくらいの堂々とした金魚だ。この金魚は、元桐朋学園女子部の唯一の保健室担当医師であった谷絹子先生(*)の家の池で育った金魚である。谷先生のご主人が35年ほど前に買ってこられて、大事に育てたものだ。
(*)谷絹子先生は、中野光著『初等部誕生物語』のp29に「二回生の健康診断(1955.1.25)医師は谷絹子先生」のキャプションでお写真が紹介されている。
その金魚二匹がなぜ自然広場の池に来たかということだ。谷先生のお住まいは学校の南側にあり、元女子部門園長・校長・理事長の故生江義男先生のお宅の隣にある。谷先生は、この1月末にご高齢のためお亡くなりになった。ご主人もすでに他界されていて身寄りもなく、お宅の庭の金魚が残されてしまった。先生のご遺言で金魚は深大寺の池に放してほしい、というものだったが、お寺の許可が下りず、市からのヘルパーさんが定期的に来て餌をあげていたという。
学校の近くにお住まいの保護者から谷先生の訃報や残された金魚の話を聞き、先生が永年お勤めになっていた学園でなんとかしましょう、とお返事した。女子部門の代表者が集まる会議にもその話を通しておいた。その時は金魚か鯉かわからなかったので、鯉ならば中高本館の中庭の池と考えていた。
◆
2月9日の木曜日の午後に谷先生の金魚・鯉二匹は水槽で運ばれてきた。来る前に魚類にも詳しい理科担当、5東担任の岡部孝司先生にも相談しておいた。「鯉(*)だったらフナの仲間の金魚(*)をつついて大変だから、本館中庭の池がいい。金魚だったらフナや金魚がいる自然広場の池に放そう」と岡部先生。岡部先生も持ってこられた水槽の二匹を確かめてくれた。「金魚だ。自然広場に…」ということになり二匹は自然広場の池に放された。環境が違ってか、金魚は放したところからほとんど動かなかった。
(*)鯉は、コイ科コイ属。金魚は、コイ科フナ属。金魚の寿命について調べてみると一般的には8~15年という。ただし、エサのあげ方、環境などにより30年くらい長生きの金魚もいるという。冬ヒーターなどなしで過ごした金魚ほど適応能力が高く長生きとなるようだ。この金魚はかなりの長命ということになる。
自然広場の池などをいつも気にかけてきれいにしてくださる永田正次さんも大きな金魚が来て喜んでおられた。永田さんとぼくは飽きずに大きく長生きの金魚を眺めていた。「癒されますねえ…。子どもたちも喜ぶでしょうね」などと言いながら」眺めていた。仕事の合間、気になって池に行ってみると高い確率で永田さんと出会った。永田さんも気になっているのだ。
白いまだらがあまり元気なく、時折横になったり、逆立ちのようになったりで永田さんもぼくも気になってきた。「まあ、寒いのと環境が変わったからでしょう」などと呑気に言いながら、温かい春を待つことにした。
◆
翌日の金曜日、職員室に入る前に池に行くと、二匹は寄り添うようにじっと池の中にいた。ああ、慣れたのだと思って安心していた。1限2限の5年生との国語の授業では「見上げれば がれきの上に こいのぼり」の俳句に付け句して短歌にしようの学習の前に、ニュースとして自然広場にやってきた二匹の金魚について手振りを交えて話した。鯉つながりではないのだけれど。
昼休み、二匹の金魚に子どもたちが群がっている。5年生も数人ようすを見に来ていた。放課後にまた行ってみると、5年生のアイさん,アキさん、あやさん(いずれも仮名)がいて心配そうだ。アイさんは、金魚すくいの名人でお祭りでは30匹くらい取るという。その金魚を飼っているという。そのアイさんが、厳しい口調で永田さんやぼくに言う。
「この金魚病気です。えらも一定の間隔でなく不規則に動いています。尾も元気なく垂れています。曲がっています。横になったりするのは苦しいからです。尾も充血しています。早くすくって別の入れ物に!塩はありますか?」
「アイさんは金魚医だね!」などと話していると、「早く!」と檄を飛ばされ、永田さんは猛暑の夏に使う塩を取りに急いだ。ぼくは美術倉庫の鍵を持ち出し、中にある大型のプラスチック水槽とエアポンプ一式を用意。あやさんアキさんたちは水槽にバケツで池の水を何杯も汲んだ。
ぼくが網で白まだら金魚をすくおうとすると、「尾からでなく、頭の方からそっと」と注意。届かなくなって永田さんに手渡しすくい取って、網から素手でつかもうとすると、「素手ではだめです!人間の体温で金魚がやけどします!」とビシッと言われてしまった。
金魚は、体内に数パーセント(0.6%位)の体内塩分を持っており、真水に育っていて体調が悪くなると、塩分が外に出たり、水分が体内に入ってきたりして体力をさいて、苦しくなる。体内の塩分(濃度0.6%)と同じ濃度になるくらい塩を入れると、金魚にとって一番快適なのだそうだ。これが塩水浴とか塩浴という療法だ。このこともアイさんに教わった。
◆
下校近くに職員室に金魚医のアイさん、金魚看護師のアキさんが図鑑を持って急ぎ足で入ってきた。「分かりました。マツカサ病と穴あき病です!」ときっぱり言って図鑑のページを示した。ぼくも同じころインターネットで「金魚の病気」を調べていた。
隔離されている水槽をみると、軽くうろこが逆立ち、松カサのようになり、体側に小さい白い穴のようになっているのがかすかに見える。「観パラ、グリーンFが効くようだね」とにわか勉強のぼくは言ってみる。「明日、島忠で買ってこよう」。塩水浴が効いているみたいで、金魚医は「えらの動きが規則正しいです。よかった!数日は絶食にしましょう!」、と毅然と本物の医師のような口調で言われ、ぼくは患者の家族のように安堵していた。
それから何度も祈るような気持ちで水槽に行った。次の土曜日も「文化セクションのコンサート」の合間、白まだら金魚を見に行った。今は尾の振り方も穏やかでえらも規則正しい。
(2012年2月11日 武藤 昭)
風55 愛と祈りのかたち
愛と祈りのかたち
~「お子たち健やかに!」~
◆
「にじいろ紙フーセン 塚原 スガノ /にじいろ紙フーセン/千コ/青空に舞いながら/ひとつになった//宇宙にじいろ紙フーセン/三千世界の/お子たちを/すっぽり包み/あらそいの無い/世界で/守りたい!(2005年5月 青山病院にて)」
塚原スガノ先生(彫刻家としてのお名前は須賀野チイさん)は、2012年1月14日に永眠された。享年102歳であった。塚原先生は1909年(明治42年)佐賀県小城郡三日月村(現・三日月町)に生まれ、1927年に東京の美術大学に入り、卒業後他でのお仕事を経験され、1944年(昭和19年)山水高等女学校(現・桐朋女子中学高等学校)、美術科教諭になられた。1949年(昭和24年)に二科展彫刻部に初入選。その後、数十回にわたり作品を出品された。1960年(昭和35年)に桐朋学園の専任を退職。彫刻に専念するために美術科講師となられた。
◆
塚原先生と小学校とのかかわりは、1955年(昭和30年)1月の第一回生の入学試験の面接試問に協力いただいたことからである。このことは中野光先生(当時桐朋女子中学校高等学校の教員で桐朋幼稚園、桐朋小学校の創立に尽力され、小学校一回生の担任になられた)が著された『初等部誕生物語』(2005年11月20日発行 桐朋学園初等部ブックレットNo1)の28ページに試験風景の写真が掲載されているのでわかった。
また中野先生からのお話では、小学校創立当初、塚原先生から、「小学生に粘土を教えたいのだけれど…」ということがあり、「あなたは、子どもたちが大好きだから、どうぞ教えてください」となり、数年、小学生に粘土を教えていただいたようだ。「子どもたちからは『粘土の先生、粘土の先生』と慕われていました」とのことだった。
もうひとつ、冒頭の『にじいろ紙フーセン』の詩は、塚原先生がご健在の2005年、初等部の創立50周年記念の年に、この詩とお便りとたくさんの紙風船を贈ってくださった。子どもたちへの創立記念の式典での話のなかでこの詩は朗読された
先生のご厚意に、2006年の100歳のお誕生会に、わたしは先生の名前を織りこんでお祝いの詩を作って、会に参加される美術科の浅井直江先生に託した。「須賀野チイ先生のアクロスチック /す ばらしき 100歳の お誕生日!/が っこうに あまた さくひんが のこされ/の どかに のびやかに 学び舎に とけこんで/ち いさな 子から 大きな人にも 愛される/い つまでも お元気に おすごしください/ 2009年4月12日 初等部の子どもとともに 武藤 昭」
◆
自然広場の中央に白くまろやかな彫刻がある。塚原スガノ先生=須賀野チイさんが創られた彫刻『ある一つの世界 Ⅰ』(1957年 白セメント)である。学園内には彫刻家・須賀野チイさんのたくさんの作品がある。小学校の校長室・応接室には『帰ってきたアケラカン』(1988年作)。また、ポロニアホールのエントランスには石膏、白セメントのほかに木、ブロンズの作品が置かれている。中高の本館中庭には、大作『祈り』(1963年 ブロンズ)、『飛翔』(1963年 白セメント)が大空に向かっている。本館内部の大きな壁面には、『宇宙』(1963年 ガラス・モザイク)が広がっている。わたしは作品集(*)によってこれらの作品の存在を知った。* 須賀野チイ作品集『愛と祈りのかたち』1997年3月31日 桐朋教育研究所発行)
須賀野チイさんの作品集の標題は、「愛と祈りのかたち」である。「愛と祈りのかたち」は生涯にわたって到達した彫刻作品の主題であった。作品集の自作年譜には、「帰ってきたアケラカン」「ある一つの世界」に寄せて、次のような表現がある。「1954年作 絶望のアケラカンは、逃亡した当時行方知れずになっていた。30数年後に戻ったアケラカン(引用者注:校長室・応接室に展示の作品)は、受容的な丸い姿で活き活きと甦っていた。/1953年作ある一つの世界は、無限宇宙に繋がる愛の世界であったこと。愛は生きとし生けるものの生命であることを、今はひとり言するのでなく、多くの人に訴えようとしている。/個人も世界も対話し、美しい愛の花を限りなく咲かせることができるように―(自作年譜 1988年・昭和63年)」。若き日からの絶望や挫折のあと、こうした愛と祈りの世界に先生は到達した。
お通夜の時、ご長男のご挨拶のなかにもそのことが触れられていた。100歳の誕生日の時のメッセージは、「お子たち健やかに!」であったという。
(2012年1月31日 武藤 昭)
風54 白いリコーダー
~1.17阪神大震災―3.11東日本大震災~
◆
1月17日は1995年に起きた阪神大震災から17年をむかえた日である。現地では、追悼・鎮魂の行事が震災の起きた5時46分から始められた。灯りを作る竹筒の中には「絆」「生きる」「復興」「祈り」「夢」などの文字がロウソクの光にあぶり出されていた。同じ追悼行事は東日本大震災の被災地でも行われた。鎮魂の灯りが東北でも絆の思いを込めて灯された。神戸などの被災地では「1.17」の追悼の灯りとともに「3.11」の灯りがともり、被災地のつながりをしめす気持ちが込められていた。
昨年の同じ時期、ぼくは、コラム「風28 また君に恋してる」(2011年1月25日)を書き、1月17日に3年生の教室に代講に行って、阪神大震災16年目の話や自身の親戚や知人の被害について語っていた。また、続く「風29 風の声」(2011年2月4日)では、風28号の読後感を書いてくださった保護者の支援物資のことや16年前の学級や学校の被災地への支援について書いていた。それから約1ヶ月後東日本大震災が起きようとは思いもしなかった。
◆
東日本大震災、大津波による災害、連鎖した原子力発電所事故によるさらなる災害を目の前にして、私たちはどうすればいいのか考えてきた。基本的には、自分たちの教育現場、仕事の領域で、しっかりと保育実践や教育実践を深め豊かにしていくことが重要である、と考えた。園長・校長コラム『風』にも震災、原発事故に関わって、もう一度子どもや授業や教育の原点から見直し、構成していく志向を紹介している。それらの一部は『初等部通信』にも反映させてきた。「風35 希望を胸に」「風36 九ちゃんの歌声」「風37 風になる」「風38 風となる授業(1)」「風39 風となる授業(2)」「風43 七夕伝説」「風46 「本当のさいはい」とは?」「風49 さくら保育園への手紙」「風51 懸命に子どもを守り育てようと」などである。
◆
2011年9月25日にケニア人女性ワンガリ・マ―タイさんが永眠した。マ―タイさんは、2004年ノーベル平和賞を受賞された人で、2005年来日されたとき、日本語の「もったいない」を世界共通語「MOTTAINAI」として広めることを約束した。環境分野ではじめての平和賞受賞で、資源の有効利用の3Rを一言で表す言葉として「MOTTAINAI」キャンペーンを行っていった。このことをある文章から想起した。
また、金子みすゞの詩「遊ぼうっていうと/遊ぼうっていう」で始まる「こだまでしょうか」は、震災後の民放の自粛コマーシャルで何度も流れてきた。同じみすゞの詩「鈴と、小鳥と、それから私」には、「みんなちがってみんないい」というあまりにも有名なフレーズがあることを、ある文章から想起した。それは、昨年12月に開かれた桐朋小学校の音楽会の感想文「白いリコーダー」が出ている学級通信を見た時にである。
◆
「白いリコーダー / 最前列で少し恥ずかしそうに白いアルトリコーダーを出す息子を見て、3.11東日本大震災のことを思い出しました。家には上の子が使っていた白いアルトリコーダーがありますが、3月はじめに新しいアルトリコーダーの注文用紙が配られ、音楽会もあるのでやはり皆と同じものを買おうと思っていました。その矢先、3.11の大震災が起こりました。連日津波に流されて町の様子や電気が自由に使えなくなった生活の中、やっと新学期が始まりました。再びリコーダーの注文のお知らせが来た時、息子が、『家も全て流された人がいるのに、家にアルトリコーダーあるのに、新しいのを買うのはいけないと思う』、と言い出しました。皆と同じにした方がいいのか、少し悩みましたが、息子の言う通りだと思い、家にあるのを使うことにしました。…」
震災を通して人間の生き方を考える、根底のところで社会や文明を考えることに繋げていく、ということを識者がさまざまに述べている。ぼくはこの「白いリコーダー」の少年や家族のなかで自分の生活に根ざした形で、物そのものを大事にする、同じでなくていいんだ、という思想が幼い少年のなかに芽生え、実践している姿に心を動かされた。そう感じたのは、実は自身の少年時代にはこれと真反対のことを考えていたのを覚えているからだ。
◆
物がない時代に育ったぼくは、物があることを望み、物を気軽に消費ができないことの辛さや妬みさえ感じて生活していた。がまんをすることもまた。自身の少年時代を書いたものを引用しながら、当時(1950年代前半)の少年の感情をふり返ってみたい。
「学齢前、母はぼくを連れて高田馬場の編み物学校に通ったことがあった。また、引揚寮の近くの三角地帯の空き地が売り出されたころ、電動のミシンを買うか、その土地を買うか父と母は迷ったという。結局、その日の生活に直結する「ミシン」を選択したのだ、と自嘲気味に母が語ったことがある。その電動ミシンで着るものをよくつくってくれた。それはネル地のシャツやパンツ。たいへんだなとも思ったが、同時に困ったこと、恥ずかしかったこともあった。
それは、4、5月にある「身体検査(当時そう呼んでいた)」のとき、脱ぐのをずいぶんためらっていた。からだ全体が恥ずかしくてうす赤に変わったこともあった。みんなと同じでないことが、なんだか気恥ずかしかった。毎年くる身体検査が苦痛だった。
遠足も写生会も嬉しさの反面、やはり気になることがあった。遠足や写生会の水筒は、市販のものでなく、手作りのものだった。父が飲んだと思われる当時の『トリスのポケット瓶』を大事に取っておいて、瓶が入る布製の袋をつくり、肩から吊るす布紐まで付けられていた。
写生会の画板もこれまた市販のものでなく、ベニヤ風の合板を画用紙大に切り、紙挟み(*いまでいう目玉クリップ)をつけ、肩ひもを付けて、背負わされた。当時、ほとんどは市販のアルミやセルロイドでつくられた水筒を持っていた。画板も同じである。
池袋の「キンカ堂」によく連れられて、生地を買いにいった。その帰り、暑い日などたまに「生ジュ-ス」を飲ませてくれた。そして極稀にそのころ流行っていた「ソフトクリ-ム」が口に入ることもあった。「食べるかい?」「寄っていこうか?」の母のことばを、いつも待っていた。でも、自分から「食べたい!」などいったことはなく、がまんしていた。」(『ネルのシャツと 岩波少年文庫と榮太樓のカンカンと チュウチュウと』1996年5月28日 2年西組懇談会資料)
物のない時代に育ったぼくの、みんなと同じがいいという感情と、物の溢れる時代に育っている白いリコーダーの少年の同じでなくてもいいんだ、という感情は、明らかに後者に高い倫理性がある。
「白いリコーダー」の文章後半には、「なぜ白いリコーダー…?」と回りの子どもや大人から言われたことが書いてあった。みんなと同じでないと何か変に感じる社会の風潮があるようだ。「白いリコーダー」の少年の想いには爽やかさや潔さとともに、高い倫理性をつよく感じたのだ。
(2012年1月18日 武藤 昭)
風53 希望を持って生きる!
希望を持って生きる!
~2011年度3学期始業式の話~
◆
みなさん、おはようございます。そして、あけましておめでとうございます。2011年度、3学期の始まりの日です。学校は2011年度と呼びますが、2012年の新しい年の始りですね。
今年のお正月はあたたかな、おだやかな日が続きました。しかし、北日本や日本海側では大雪になっています。いつもよりたくさんの雪が積もっているようです。被災地のお正月は寒さや雪の中、避難所や仮設住宅で迎えた人がまだまだたくさんいます。昨日の成人式では、「親友と一緒に成人式に出よう、といっていたのに津波に流されてれてしまってできなくなってしまった」、と涙を流している青年がいました。その親友の写真をもって参加する青年がいました。このところ寒い日が続いています。今日は気温3度の予報でした。日中も8度位で気温が上がらないといいます。昨年の暮れから乾燥しているので喉をやられそうです。風邪などひかないように元気に過ごせるといいですね。
◆
今年は辰年。干支でいうと辰・龍(タツ・リュウ)の年です。もともと「辰」の意味は「ふるえる」とか「動く」の意味を持っていて、「振動」「地震」など「辰」が入っていますね。「辰」は「動いて伸びる」「整う」という状態をいうのだそうです。草木が盛んに成長して形が整うという意味だそうです。ちょうど成長して賢くなっていくみなさんのようです。この「辰・振」をなぜ神話上の「龍・竜」にあてたのかは分からないようです。いただいた年賀状には、龍のイラストや版画、手書きの龍のものがたくさんありました。ありがとうございました。
年賀状のなかに、「学校はとても楽しいです」と書いている人が多かったのは嬉しかったです。「今度の音楽会はぼくが4年生になったときだ。楽しみです」と音楽会のことを書いた人もいました。「なわとびがんばります」「二重跳びに挑戦します」と書いたのは中学年の人。6年生からは、「3月で卒業です。のこされた小学校の生活を大事に送ります」とありました。
◆
3学期が今日からスタートします。いつもお話していますが、「自分や自分たちの生活のめあてを持って」「希望を持って生きること」ことを大事に考えながら生活していきましょう。
さっきからサッカーボールをなぜ持っているのだろう、と不思議に思っている人はいませんか?今朝4時にスイスから入ったニュースで日本のなでしこジャパンの沢穂希選手が2011年のFIFA(国際サッカー連盟)が選ぶ年間最優秀選手賞に選ばれたということです。アジアからは初めて選ばれたのです。沢選手は小学校のころから府中のサッカーチームに入って練習を積み重ねたといいます。サッカーが上手くなりたいと希望を持って練習を行ってきました。同じく年間最優秀監督賞にはなでしこジャパンの佐々木則夫監督、男子のバロンドール(最優秀選手賞)にはアルゼンチンのメッシ選手が3年連続選ばれました。
この三学期は2012年1年のスタートの時期であるともに、3学期の学年のまとめの時期でもあります。クラスでは「まとめの会」「発表会」なども行われるでしょう。クラスで取り組む「劇」の発表、そのほかの発表などをぜひ隣のクラスや他の学年にも呼びかけてほしいと思います。みんなの表現をみんなで見合っていくことができたらいいな、と思います。
6年生はこの学期が小学校生活最後の締めくくりの時期です。残り少ない小学校生活を充実したものにしてください。
それでは元気いっぱい3学期の生活をはじめましょう。これで始業式の話を終わります。
(2012年1月10日 武藤 昭)
風52 一つのことに向かって
一つのことに向かって
~2011年度・2学期終業式の話~
◆
みなさんおはようございます。2学期の終業式です。寒い日が続いています。みなさんは元気でしょうか?風邪がはやってきています。大丈夫でしょうか?
今日、12月22日は冬至といって、昼間の長さが一番短い日です。今日の日の出は6時45分くらいでした。日の入りは夕方の4時33分くらいといいます。この日にゆず湯に入ったり、かぼちゃや小豆を食べるのは、夏の間、太陽をいっぱいに浴びた植物を食べて無病息災を願う、つまり元気にくらすことを願った人間の知恵、習慣です。
◆
この一年のことで、みなさん忘れられないのは、3月11日の東日本大震災のことでしょう。1年生はまだ保育園や幼稚園に行っていたころです。太陽をいっぱいに浴びる、ということでいえば、原子力発電所の事故に近い、福島県の子どもたちは、陽の光をいつぱいにうける外遊びが全くできなかったり、時間を決められて外に出る、ということをしています。放射線量が高いからです。
ある保育園では、小さな子どもたちが、今まで乗っていた三輪車に乗ったところ、全くこげなくなったと聞きました。また、外遊びが制限されている小学生、中学生の間でゲーム機がずいぶんはやっていたり、室内の遊びの施設が混みあっている、と新聞に出ていました。そうした子どもたちの体力が落ちてきていることが心配されています。桐朋小学校では、空間放射線量を測り、安心して外遊びができてよいなあ、と思います。
自由に表に出て、陽の光を浴びて思いっきりからだを動かせる日が早く、被災地の子どもたちに来るように祈ります。
◆
さて、2学期は、たくさんの行事があってみんなで取り組んできました。高学年を中心に自分たちの学校をもっともっと自分たちの手で創っていこうという取り組みをしてきました。運動会の取り組みは、みんなの力を合わせるということで大変素晴らしかった、と思います。
6年生は広島への修学旅行で、たくさんのことを学んできました。昨日は東組、西組も「修学旅行報告会」を行い、5年生やお家の人たちに学んだことを伝えていました。5年東組、西組ともに直ぐに学んだことを作文に書いてすごいなあと思いました。その5年生の感想を一つ。
「報告会を聞いて(*)―原爆が落ちた日、本川小学校では、子ども約400人と先生10人のたくさんの人がいたのに、生き残ったのは二人だけと聞いておどろきました。被害者の証言で、原爆が落ちた場所から1.7㎞も離れていたのに、宙に舞い上がってしまったと聞いてびっくりしました。報告会でのことや被害者の証言などを聞いて、ぼくは日本だけでなく、世界中で戦争をなくし平和な地球にしてほしいと思います。来年度ぼくたちも広島に行くので、今日教わったことを覚えておきたいです。(5年西組男子)」
みんなの気持ちがいつぱいに合わさり、一つのことに向かっていく良さは、毎日の授業でもたくさん経験したことでしょう。
学校全体の活動でいえば、12月9日に行われた音楽会があげられます。どの学年もとても元気いつぱいに、楽しく歌を創りあげていました。素敵なリコーダーの演奏をしてくれました。発表の後、大きな大きな拍手が起きました。
音楽会を聴いてくださったお客様にご挨拶をしたら、「どの学年も素晴らしい歌やリコーダーの発表でした。感激しました。聴いている他の学年の子どもたちも大変落ち着いていましたね」という言葉をいただきました。一つのことに向かうことの素晴らしさをたくさん感じた2学期でした。
◆
明日から冬休みです。冬休みには新しい年を迎える準備をする時でもあります。家での仕事もたくさんあるでしょう。「猫の手も借りたい」という言葉があります。猫の手は肉球があって自分の顔をこすることくらいしかできませんが、その手でも貸してほしいくらいだ、といっているのです。2年生の教室に授業に行ったら、壁に「家で仕事をしたこと」のカードが出ていました。「スパゲティ―を作った!」「お風呂掃除をした」などカードがありました。この冬休みの忙しい時期、家の人と相談して自分でできる仕事を受け持っていきましょう。
手洗い、うがいなどをしっかりと行って、元気に過ごしてください。2012年1月10日3学期の始業式に元気であいましょう。
*実際の終業式では、修学旅行の部分をぬかしてしまったので、ここに記しておきました。
(2011年12月22日 武藤昭)
風51 懸命に子どもを守り育てようと
懸命に子どもを守り育てようと
~さくら子育て支援センターからの手紙~
◆
12月16日に首相は、政府の原子力災害対策本部会合で、福島第一原子力発電所の原子炉を安定して冷却する「冷温停止状態」を宣言しました。記者会見でも同様の宣言を行いました。住民、専門家から今回の宣言は、さまざまな観点、例えば核燃料の溶融状態が不明の段階や高濃度汚染水の海への流出の確認などから、工程表「ステップ2」の完了宣言は事故収束を急いでいる、との批判も出されています(「東京新聞」12月17日朝刊一面)。
また、12月18日には復興対策担当相、原発事故担当相らが福島県知事はじめ各市町村の首長に、「20ミリSv未満 来春にも帰宅 退避区域再編を伝達」(「朝日新聞」12月19日朝刊)されたとあります。年間20ミリSv未満がどうなのか、住民とりわけ小さな子どもたちへの影響が心配されます。
11月の園長・校長コラムに『風49 さくら保育園への手紙』と題してホームページに更新しました。福島市のさくら保育園は、社会福祉法人の保育園で「さくら子育て支援センター」も併設されています。そのさくら子育て支援センターからお便りいただきました。
◆
「前略 以前、支援物資として送っていただいた玩具の中から、子育て支援センターもお手玉を分けていただきました。
支援センター-は、昨年11月に始まり、ようやく1年になります
この震災、放射能災害でセンターを利用する親子もぐっと減りましたが、福島の地に残り、懸命に子どもを守り、育てようとする親御さん、そして子どもたちのために厳しい現実の中にも、何か楽しいことを、と1周年の記念に“わたあめまつり”を行いました。その際、子どもたちにプレゼントしたのが、いただいたお手玉と、私たち職員がつくった指人形です。一つずつカプセルに入れ、わらべうたをのせたメモをつけて、おたのしみ箱から選んでもらいました。
日頃、お手玉を使ってわらべうたあそびしている子どもたちは大変喜んでおりました。
どれをとってもかわいらしい生地で、丁寧に仕上げられたお手玉から、みなさんの温かいお気持ちが伝わってきました。
私たちはきっときっと復興します。
ご支援本当にありがとうございました。
<2011年11月21日 さくら子育て支援センター 江刺>」
◆
さくら子育てセンターのみなさん、お便りありがとうございました。私たちの幼稚園の保護者有志の取り組みが福島の地に暮らす子どもたちや保護者のみなさん、支援センターの職員のみなさんに、微力ではありますが、お役に立つことができて嬉しく思います。
「震災、放射能災害でセンターを利用する親子もぐっと減りました」のところ、さまざまな想いが渦巻いているのであろうと、こころが痛みました。そうした中、子どもたちの楽しい思いをさせたいと「わたあめまつり」を実施されたこと、同封の9枚の写真(写真コピーの複写写真を添付)から、子どもたちの嬉しそうな姿や、職員のみなさんの温かい思いが伝わってきます。一枚の写真には、子どもの背後にベランダが見え、ベランダに水入りのペットボトルがあるように見受けました。先のさくら保育園園長先生のお便りにありました水入りペットボトルの敷き詰めによる除染ではないか、と推察いたしました。
今後、さくら保育園、さくら子育て支援センターと桐朋幼稚園、小学校と幼稚園・保育園間交流、保護者の文通、ホームページ交流など行っていきたいと思います。困難な中にあっても子どもたちの明日のために、ともに力を尽くしていきたいと思います。
(2011年12月19日 武藤 昭)
風50 一つのことに向かうまなざし
一つのことに向かうまなざし
~リハーサルでのメッセージと音楽会での挨拶~
◆
東京にも雪が舞った寒い寒い日に、小学校の音楽会が無事に終了しました。子どもたちの歌声の素晴らしさ、演奏の美しさたくましさを十分に感じ取った音楽会でした。みなさんはどんなことを感じ取ったでしょうか?ぜひたくさんの声を聞かせてほしいと思います。
以下の文章は、音楽会前日に5年生・6年生のリハーサルを参加していて、6年生の子どもたちへ率直な感想を述べたものです。また、音楽会のはじめのセレモニーで子どもたちに向けたことばです。
◆
12月8日(木),明日の音楽会に向けたリハーサルアがプレイルームで行われました。プログラムの順番で学年ごとに行われました。ホームページ作成 者は、あいにく学園全体の会議があり、すべてを聴くことはできませんでした。後半の5年生と6年生の合唱とリコーダー演奏を聴くことができました。両学年ともに真剣なまなざしで合唱にリコーダー演奏に向かっていたことが印象的でした。大地にすっくと立ち、真剣に歌声を創りあげる姿は感動的でし た。一つのことに向かうまなざしの強さ、こころ合わせる姿はすばらしかった。音楽がプレイルームから溢れ、早く広い“どりーむホール”での合唱、演奏にし たい、という熱気でした。1~4年生も同じ気持ちで歌に取り組んだと思います。明日の音楽会へ!
◆
みなさんこんにちは。桐朋小学校の二年に一度の音楽会です。1年生、2年生ははじめての音楽会ですね。どんなところで歌うのだろう、と心配していた人がいました。 こんなに大きなホールで歌うのです。たくさんの人たちがみなさんの歌声を聴きにきてくださっています。とても嬉しいですね。
プレイルームの練習ではどの学年も音楽の先生たちとほんとうに一生懸命、自分たちの歌声をつくっていました。ことばをていねいに曲にのせて歌っていくことをやっていました。どうすればもっと気持ちを込めて歌えるか、練習していました。一年生の楽しい歌声の合言葉は、「かがやく眼 かがやく音 温かいこころ」でした。この合言葉で楽しく元気な歌声をつくりましょう。
どの学年も昨日のリハーサルまでほんとうに素晴らしい歌やリコーダーの演奏を創りあげてきました。一日一日よいものを創りあげてきました。
6年生のリハーサルでは、「一つのことに向かうまなざしのすばらしさ」について話しました。みんなで創りあげる歌声や演奏の素晴らしさに感動しました、ということを話しました。どの学年もそうした思いで歌声を創りあげてきました。その思いで表現していきましょう。
音楽会は舞台に上がって、歌やリコーダーを表現する人たち、その歌声を受けとめる会場のみなさんと一緒に創っていくものです。聴いている人たちもていねいに歌声を受けとめてほしいと思います。
今年の音楽会は、3月11日に起きた東日本大震災の年に行われます。被災地はまた雪の季節になりました。亡くなられた人たち、被災地で苦しんでいる人たちにみなさんのやさしい、あたたかい歌声が届けられるといいですね。
さあ、音楽会が始まります。5年生、6年生は今日が小学校最後の音楽会になります。みなさんで心をひとつに、楽しい音楽会を創りあげていきましょう。
(2011年12月9日 武藤 昭)
風49 さくら保育園への手紙
◆
10月も半ばを過ぎ、東京も今日はかなり気温が下がっております。この日曜日は、東京で30度近くあったのですが、数日で気温が急激に低下しました。寒暖の差が激しく、子どもたちや高齢者のからだには辛いでしょう。
東北地方も今日は最低気温5、6度のところがあり急激な気温変化が心配されます。福島は気温低下もさることながら、原子力発電所事故による放射線に関して心配と不安の日々であろうかと思います。
報道によりますと、除染作業も市民が中心となり行われているということで、貴園でもさまざまな対策が行われていることと拝察いたします。
保育誌『エデュカーレ』の「全国読者交流会報告」を読ませていただきました。貴園の独自の取り組みが紹介されていました。表土削り、高圧洗浄、水入りペットボトルによる放射線ブロック、緑のカーテンなど本当にさまざまな取り組みがなされ、こうした取り組みに至るまでに多くの人びとの知恵と行動が集められたことを思います。そのご努力にあたまが下がる思いがいたします。
◆
放射線の影響は、生きとし生けるものすべてにあるわけですが、とりわけこれから成長していく乳幼児の発育、発達に大きな影響があり、心配されます。子どもの成長発達に関わる者の一人として、さくら保育園の取り組みは貴重なことであると考えます。行政もこうした先進的な取り組みに学び、積極的な施策を展開してほしいものです。
前桐朋幼稚園園長の宮原洋一先生からさくら保育園の取り組みをお聞きしました。子どもたちが外遊びをできない、室内での遊びを充実させたい、旨のお話があり、本園の保護者・保育者も何かできることはないかと考え、室内で遊べる道具「あやとり・お手玉づくり」を保護者有志で取り組むことにいたしました。
さくら保育園の子どもたちが笑顔で遊ぶ表情を思い浮かべながら作りました。本日、保護者有志で梱包し貴園にお届けします。
放射線の心配や不安は今後さらに続いていきます。子どもたちの健康にも注意を傾けなければなりません。震災の復旧、復興のなかで除染、放射線対策、健康調査なども緒についたばかりです。何よりも子どもたちが安心して安全に生活を送れるように心から願っています。
貴園の子どもたち、保護者の方がた、保育者の皆様によろしくお伝えください。今後、これを御縁にまたさまざまな交流ができることを願っております。
◆
この「さくら保育園への手紙」は、10月中旬に投函されました。11月初旬、さくら保育園の園長先生からつぎのような礼状がありました。
「この度は、心のこもった品々をいただきありがとうございました。手作りのおもちゃを子どもたちに見せたら、さっそくあやとりを始めています。4、5歳児は、いただいた本を見て、どんどん新しいやり方に挑戦しています。大事に使わせていただきます。
あれから7か月が過ぎました。放射線は、音も匂いも目にもすることもできませんが、線量計だけがその存在を私たちに知らせてくれます。
放射能災害の不気味さは、人の不安を膨らませていくという、これまたなんともとらえようのないものです。国、東電、自治体のなかなか進まない対応に、保護者、所長会、労組等から要望書が出されています。この間、無認可保育園の閉園や幼稚園の園児減少の話を聞きますが、認可保育園については、避難による退園児はいるものの、それでも定員以上の子どもたちがいます。不安を持ちながらも、仕事は?生活は?と考えながら、ここで子育てをしようという保護者がいます。家族が別れ、避難した人たちのたいへんさも聞こえてきます。(後略)」
お手紙後半には、線量の下がった園庭での外遊びが始まったこと、そのために園全体で多大なエネルギーを費やしたこと、4歳児が以前はすいすい乗っていた三輪車がこげなくなってしまった、ということも書かれていました。そのことから子どもたちにとっての外遊びの大事さが良く分かりました。
* この「さくら保育園への手紙」は、女子部門の『学内広報』のために書いたものです。今の福島の状況を知るひとつの情報として『風』に報告します。
(2011年11月18日 武藤 昭)
風48 生存者一名
生存者一名
~広島修学旅行記~
◆
10月21日(金)修学旅行二日目は、広島平和記念公園の“碑めぐり”が中心の活動であった。いつもは事前に平和記念公園の原爆ドーム、原爆の子の像、原爆供養塔、峠三吉の「序」の詩碑などを学習し、実際の像や碑を見学していくことを行っていた。
今回は、事前学習を行い、加えて「被爆証言の会」「ピースナビゲーター」などの平和学習ガイドの方たちが子ども12名に1名付いていただき“碑めぐ り”を行った。教員も一名ずつ付いてともに学んだ。私たちは平和記念公園の碑・像について紹介されているいくつかの書物から学び資料を作ってきた。書物か ら学ぶことはもちろん重要なことではあるが、被爆体験された方たち、被爆二世の方たちから碑の意味や背景について現場に立ってうかがえたのは、新しい発見 であり、新しい学びであった。
◆
私たち13名を案内してくださったのは、ピースナビゲーターの永原富明さんだった。永原さんは、1946年(昭和21年)生まれで、被爆二世である、と自己紹介された。分厚いクリアーファイルに写真、資料、詩などを挟みこんでいた。
原爆ドーム前での自己紹介の後、はじめに案内されたのは、元安川の川岸であった。1945年8月6日原子爆弾が落とされた直後からこの川にいっぱいに遺体がうごめいていた。川岸に今でも当時の茶碗のかけらが残っていた。子どもたちはそうした現場に立ち永原さんの話に耳を傾け、茶碗のかけらを記念に持ち帰った人もいた。向こう岸に黒い部分が見えるのは、満潮時にはそこまで水位が上がるということだ。見学の時間は干潮時で普段はなかなか下りることがない川岸に降りることができたのは幸いであった。(川岸での写真)
◆
いつもはあまり訪れない碑に案内された。原爆ドームに程近い“動員学徒慰霊塔”であった。動員学徒で犠牲になった中等学校、高等学校、女学校の生徒は圧倒的に広島県が多いが、全国から学徒疎開の生徒が広島の地にも疎開をしていた。慰霊碑裏の前で、永原さんがこう子どもたちに尋ねられた。
「犠牲になった学徒は圧倒的に広島県の中等学校・高等学校の生徒が多いのはわかりますね。しかし、なぜ静岡県の学校が次に多いのか、みなさんはわかりますか?」(慰霊碑の写真)
この質問にはだれもわからなかったし、想像することもできなかった。
「アメリカのB29など爆撃機は、太平洋上から日本一の富士山を目印に飛んできて、さまざまな都市を爆撃し、帰路にはまた富士山を目印に飛び、爆撃に使わなかった爆弾を燃料節約のため静岡に落としていった。それで、静岡県の学校では学徒疎開が多く、この広島にも疎開し動員学徒として広島の地で被爆した生徒が多かったのです。」
慰霊碑のおもてを見ることはしても、裏面をまで見ることはなかなかしない。このように現場に立って平和学習ガイドの方からその碑の意味や見えない部分を説明されると、戦争時代の史実が繋がりを持って見えてくる。永原さんから教えられた新しい発見である。
◆
私たちが碑めぐりした現在の平和記念公園は、原爆が落とされる8月6日午前8時15分の前まで、太田川の三角洲として成り立ち、本川と元安川に挟まれた市街地であった。住宅が並び、店舗があり、鉄筋の建物がある普通の街であった。8時15分に爆心地(島外科)上空580メートルで炸裂した原子爆弾によってその街は壊滅的に破壊された。被爆後4年経った1949年広島平和記念都市建設法の制定があり、1950年に工事着工、1954年に完成した。この爆心地を平和記念公園として復興させることとなった。
案内されたのは、韓国人原爆犠牲者慰霊碑のすぐ近くの“被爆した墓跡”であった。(墓跡の写真)この遺跡は、「慈仙寺にあった広島藩浅野家の御年寄岡本宮内の墓であり、原爆により墓の笠あたる相輪が飛び崩れた」と説明文にあった。注目したのは、この遺跡の地表面が被爆前の旧市街地の地表面であったことだ。現在よりも1メートルは低かった。この地で人びとは原爆の被害にあったのだ。平和記念公園を建設する時に焼け野原の地表面に盛り土をしたという。市民のたっての願いで当時の地表面を遺したのだ。その地に立つことは初めてであったし、それらのことももちろん知らなかった。
◆
永原さんの案内で一番の驚きは、元安橋のすぐ近くの現在記念公園レストハウス、観光案内所になっている建物での出来事だ。この建物は1929年に“大正屋呉服店”として建てられ、1944年に“広島県燃料配給統制組合”となっていた。爆心地からわずかに170メートルしか離れていない。この旧市街地(現平和記念公園)は原爆の直撃で壊滅的な打撃を受け、生存者は全くいない、と思っていた。ところがこの統制組合の地下室に生存者が一名いたのだ(地下室や案内板の写真)。私たちは許可をいただき当時のままの地下室に降りることができた。ヘルメットをかぶって。
生存者は、野村英三さん(1982年に84歳で他界)であった。当時47歳。広島県燃料配給統制組合の職員で、原爆投下された時には、地下室に書類を取りに降りており、奇跡的に生き延びることができた。生存者一名。
「広島原爆戦災誌」第2巻(1971年9月広島市発行)には、野村英三さんの『爆心に生き残る』と題する手記がある。前半部を引用しておこう。
「ドーンというかなり大きな音が聞こえた。とたんにパッと電灯が消え、真っ暗になった。(引用文中略)自分は階段の直ぐ下に立っていた。上がろうかと思って足を階段にかけた。そして、2、3歩上がりかけたが、どうも変な具合だ。階段の状態が無い。板切れや、瓦や、砂や、ごちゃごちゃに混ざった坂になっている感じだ。柔らかな俵のようなものが足の下にある。おかしい。両手でそっとさわってみた。半分位砂の中に埋もれている。あっ人間だ!抱え起こして、声をかけたりいろいろしてみたが、がっくりしていて、もはやこと切れているようだ。とたんにからだがふるえてきたようだ。奥の方から闇をついて、助けてくれーと男の声だ。その声がつづいて聞こえてくる。そして直ぐ泣き声にかわった。オオーン、オオーンと。自分は急いで登りつめたとたんに、頭をゴツンと打った。手でさわってみるとコンクリートの壁らしい。両手で押してみたが、ビクともしない。出られない!(引用文中略)出られねばここでこのまま埋もれてしまうのか。そのときゴーという水の音が聞こえてきた。この地下室には8インチの水道管が元安橋の裏側を通って入ってきている。そうだ、水道管の破裂だ!どうしよう、死は時間の問題だ。(引用者後略)」
水道管の破裂で水が溜まりだし、暗く狭い地下室から、黒い煙で覆われた市街地にやっと立てた。その安堵と恐怖は計り知れない。
生存者一名の地下室に立ち、野村英三さんの恐怖を思ったが、緑あふれる記念公園の明るさに戻ってみれば、その恐怖や驚愕を想像するにはあまりにかけ離れていた。しかし地下室に降りることによって地獄のようなありさまを想像し、痛みを共有する、という想いに近づこうとの意志を持つことはできた。
永原さんたち平和学習ガイドの方がたの献身的な案内により、原爆や平和について新たな発見や新たな想いを抱いた“碑めぐり”であり、修学の旅であった。
(2011年11月6日 武藤 昭)
風47 掻い掘り大作戦
◆
子どもたちが好んで遊んでいる自然広場には、小高い山から川が流れ池に注いでいる。もちろん川は人工的なもので、池に溜まった水はポンプ室に入り、揚水ポンプで山の上にあげられて循環している。ポンプ室は活性炭で汚水をろ過する仕組みになっている。しかし、長年泥、枯葉などが池に入り、水も汚れてきてそろそろ“掻い掘り”を行わなければ、と考えていた。自然広場委員会(自治的活動の一委員会)の活動内容に「池や川の大掃除=掻い掘り」を行うことになっていた。
計画していた9月21日(水)に池の水を排水して魚類を水槽に上げる作業は、台風14号の接近で臨時休校となり、延期せざるを得なくなった。“掻い掘り”とは、水を抜き池底に溜まった汚れた泥、腐葉などを掻い出して、池をきれいにする作業のことである。
1998年に自然広場が完成して、数年間掻い掘りができず、初めて2004年に管財課の協力で行った。池からの異臭がきっかけであった。最近では2009年10月新型インフルエンザが流行した時期に行った。今回は三度目の掻い掘りであった。
◆
10月14日(金)に掻い掘り大作戦の前哨戦、池の水の排水と溜まり水に残った魚類を水槽に移す作業を行った。大きなギンブナ、フナ11匹、ハヤなど小魚15,6匹、メダカ2、30匹、ザリガニ大小3匹、ヤゴ多数…であった。意外に魚の数が少ないと思った。大きなプラスチックボックスに入れ、小型ポンプで酸素を送り、メダカ用のエサもあげた。
10月15日(土)9時に本格的に掻い掘り大作戦が始まった。自然広場委員7人、飛び入り参加2名、教職員5名、管財課職員1名で行った。ただし、小雨が降ってきたのでしばらく理工室で待機。子どもたちは今日の作業手順を聞き、雨待ちでトランプなどに興じていた。長い時間になったので若干のおやつをまだ働いてはないものの口に入れる。4、50分待って、雨も上がり仕事を開始した。はじめは、池内に置かれていた石、投げ入れられた石の除去。これはヘドロを取る時に邪魔になるので、思い切ってできる限り外に出した。その後、石の山を自然広場の隅に移動した。一輪車(ネコ)に積み何度も往復した。重くなるので子どもがネコで運ぶ時は量を加減した。これと並行してヘドロをシャベルですくい、バケツに入れてこれも何度も運んだ。
子どもたちはこうした仕事を心待ちにしていた。委員会に入る動機はいろいろあるけれど、一番多いのが池や川をきれいにしたい、というものである。本当によく動き感心する。危険・汚い・きついの3Kを掻い掘り作業はすべて持っているのに、子どもたちは嬉々として働き、よく動く。からだを動かしていく作業そのものを厭わない子どもたち。それもみんなが休みの土曜日に。
掻い掘り大作戦のあとは、おやつ大作戦で差し入れのお菓子、ジュースで労をねぎらった。
◆
子どもたちの掻い掘りの後、午後から業者に来てもらって、ポンプの取り換え工事、ポンプ室に溜まった土砂の吸い上げ、水循環のための揚水管のつまりを高圧洗浄機で除去する作業を行っていただいた。高圧洗浄機車、強力バキュームカー二台が入った。その作業の延長で、図々しくも子どもたちやぼくたち教職員でのヘドロ処理をさらに完璧にするために、せっかくの高圧洗浄機、バキュームカーを使っていただくことをお願いした。かなりの部分きれいにし、ヘドロも吸い込んでいただいた。
6年生の修学旅行中も管財課を中心に排水、注水を繰り返し、さらに取り損ねていたヘドロを引き上げていただいた。
◆
修学旅行後、注水してから、川のところの泥や枯葉の清掃、積み上げて残った石を運ぶ仕事など、放課後の早い1年生、2年生、3年生がこれも嬉々として活動してくれた。自然広場が好きな低・中学年の子どもたちが遊びのように仕事をしてくれる。それを見ていた自然広場委員の少年が、ちょっと羨ましそうに嫉妬も感じながらこういった。
「あっ、ぼくたちの長靴を履いている!」
ぼくたちが管理しているのに、ぼくたちに断りもなくやっている、高学年の授業中にやっていいなあ、でも小さい子どもたちが目を向けてくれて嬉しいなあ、というさまざまな思いを込めていっているように感じた。
* しぜんひろば委員会は自治的活動(児童会活動)の一つ。他には、代表委員会、図書委員会、放送委員会、体育委員会、あそび企画委員会、保健委員会、理科園委員会、プレイルーム委員会などがある。5年生、6年生全員で担当する。
(2011年10月31日 武藤 昭)







































































































































