2018.9.6

Where there’s a will, there’s a way!! [Ⅱ-166]

 9月4日、同窓生の高橋侑子さんが来校してくれました。前日ジャカルタから帰国し、応援してくれている地域の「優勝セレモニー」に参加され、夜、オーストラリアに向かう日程のなか、本校をたずねてくれました。高橋さんのことを、3月にこのコラム[147]で紹介させていただきました(タイトルは今回と同じで、「志あるところに道あり」という意味)。今回、アジア大会トライアスロン競技の個人、団体で、高橋さんは金メダルを獲得し、あらたな道をひらいています。

 高橋さんには、5月に発行した『桐朋教育』に原稿を執筆していただきました。トライアスロンの「虜」となったこと、「これからも試行錯誤の連続を糧に、次に繋げて、自分の可能性を拡げ、ワクワクしながら新しい自分に会いたい」というおもいなど、みなさんにお伝えしたいと思います。

Where there’s a will, there’s a way!!

   高橋侑子

 私は幼い頃からスポーツに親しむ環境で育ち、トライアスロン愛好家だった父の影響もあって物心がつく前からトライアスロンがとても身近な存在にあった。この「スイム・バイク・ラン」を連続して行う競技の虜になった私と小中高12年間を過ごした母校桐朋との繋がりを振返りたいと思う。

私の小・中・高時代
 小学生時代は“子ども一人ひとりのあり様を大切にする”桐朋小学校で、いつも面白く楽しい発見が溢れる中、休み時間も放課後も思いっきり外で遊んでいた記憶がある。
 その頃週末は、家族で全国各地のマラソン大会へ出掛けるのが慣例で、ミニマラソンや家族リレーなどに参加し、小学2年生の時に初めてトライアスロンにも挑戦した。正直、当時のことはあまり良く覚えていないが、遊びの延長で楽しんでやっていたと聞いた。そこが私の原点である。
 成長するにつれ、“楽しむ”だけではない“競技”としてのスポーツも見えてくるようになると、気持ちだけ追込み過ぎて気分悪くなることや、思うようにいかないことも出てきたが、子ども心に表彰台のご褒美が嬉しく、その為にどうしたら良いかと家族を交え戦略を練り試行錯誤する妙味も覚えていった。
 この時期に受験勉強に囚われることなく、のびのびと過ごせたのはありがたいと思う。

 中学生になって、ずっと楽しみにしていた部活動は、陸上部を選んだ。この部活の存在はとても大きく、生活全てが部活中心に進んだと言っても過言ではない。中高6年間苦楽を積重ね、悩み泣き笑って築いた仲間との絆は、多彩な学校行事を通して認め合う気持ちを育んでくれた。特に、学年全員を取り纏め、立ち向かわなければならない体育祭で、様々な葛藤、悪戦苦闘の末に得た僅差の勝利は、貴重な財産となった。自分を肯定できる気持ちに辿り着く事、それは、今も大切な心の健康の源になっている。
 部活の競技面では、中学1.2年は陸上に専念し、東京都の選抜にも選ばれ、全国大会を目指したが、筋力不足からくる故障等で成績が伸び悩み、初めて壁にぶつかった。今思い返すと、とりあえず部活に参加し、なんとなく走っている自主性のない状況であったと思う。その打開策の1つとしてトライアスロンチームの体験に行ったところ、刺激を受け、新しい環境に挑む事にした。平日は登校前にチームで泳ぎ、放課後は部活で走り、週末にチームで自転車の練習をするような日々。少しずつ身体も変化したのか、故障は激減した。そして、中学3年夏に岐阜県で行われたジュニアオリンピックU16の部で優勝し、想定外の結果から「トライアスロンに懸けてみたい」という方向性が定まって行った。

 高校生になり、U19の部1年目にして念願であったアジア選手権・世界選手権の出場権を得て、初の日本代表になった。チャレンジ精神で新たな道を切り拓き、アジアや世界の国際舞台に立てるようになると、格段に視野が広がった。厳しい練習も自分を変えられるワクワク感で楽しみながら取り組んで行った。徐々に今までぼんやりとしていた目標が「オリンピックで戦いたい」という明確なものになった。

卒業、新たな挑戦
 卒業後の進路を迷い、自分を試すために、短期だがオーストラリアのチームで単身修行をさせて貰う機会を得た。初めは右も左も分からず苦労したが、この貴重な経験を経て、スポーツ科学、栄養学、語学力の必要性を痛感し、新設間もない法政大学スポーツ健康学部を受験することにした。私は三期生となり、新しい事に挑戦し、可能性を引出してくれる校風の元、多種多様な事を学んだ。大学進学と共に、練習や遠征の計画・手配、ウエア、バイク等用具のスポンサー探しも自力で行い管理責任を自らに課してみた。又体育会水泳部にお世話になり、徹底的に水泳に取り組めた事も大変幸運であり、大学選手権を4連覇し、充実した大学生生活を過ごせた事は大きな副産物になった。
 2016年、ひとつの目標としていたリオオリンピックは、納得のいかない選考結果により、残念ながら補欠というかたちに終わった。深い喪失感と虚無感。でも自分を鼓舞させ、到底納得は出来ないが、前に進むしかないと気持ちを切替え、同夏にスイスで行われた世界学生選手権で日本人初優勝を勝ち取った。そこで心の片隅で潰れかけていた自分を取返せた気がする。そこからは小さな枠にはまらず、グローバルに成長するために、独自の道を邁進しようと決意し、インターナショナルチームを模索することにした。海外には国の垣根を越えて活動するチームが多く存在する。以前から世界のトップ選手たちが国籍を問わず一緒に練習している姿を見て、興味を持っていたが、2020年に向けても今がチャンスだと判断した。
 2016年世界シリーズ最終戦にて、レース前に一人でプールに行った際、ちょうど以前から興味を持っていたチームのコーチを見かけ、声を掛けようとした。しかし、散々迷ったものの、言葉の不安もあって行動に移せず、チャンスを逃してしまった。一歩踏み出せなかった自分に少し嫌気がさし、このままでは変われないと猛省しながらプールから滞在先に戻る途中、偶然にも再びそのコーチが1人で歩いているところに遭遇した。このチャンスを逃すわけにはいかない、と思い切って話し掛けた。つたない英語であったが、とても親切に話を聞いてくれ、帰国後メールでのやり取りを始めた。結果的には、そのチームは定員オーバーで新規加入は出来なかったが、その代わりにアメリカ、サンディエゴを拠点とするThe Triathlon Squadというチームを紹介してもらい、2017年1月より新しい生活がスタートした。ポルトガル人のコーチに、アメリカ・カナダ・ベルギー・デンマーク・イタリア・スペイン・エストニア・リトアニアの世界各国から集まった選手たちの中で全てが新鮮であった。
 まだ思うように英語が話せない状況だが、コーチを含め、チームメイトみんなに助けて貰いながら、切磋琢磨する日々、貴重な経験が積めている。1年を通して海外での生活が大半を占め、大変な事も多いが、一歩踏み出して良かったと胸を張って言える。レース戦績も、2016年は一度も世界シリーズでトップ10に入ることが出来なかったが、2017年は5,8,9位と3回トップ10入りし、世界シリーズランキングは34位から14位にジャンプアップした。もちろんまだ満足するような結果には至っていないが、これから先が改めて楽しみになるスタートであった。

これからも、Where there’s a will, there’s a way!!
 振返ると、多くの幸運と人々のご支援によってここまで繋げてこれた私がいる。
 今後プロとして、結果を求められ、身体以上に心のタフさも増々必要となる。そして東京生まれ、東京育ちの私にとって、トライアスロン適齢期と言われる29歳で迎えるホームタウンでのオリンピックは大きなプレッシャも伴うであろう。しかし、それは運命と捉え、責任感や使命感と共に、より巨大なモチベーションに繋げてゆきたい。
 高校卒業後大変光栄な事に桐朋の同級生やそのご家族が中心になって後援会が結成された。国内試合では、大声援に励まされ、とても心強い。「体育祭のノリだから!」と結果に拘わらず「自分たちも楽しんでいるから」と桐朋らしい一体感に心が癒されている。
 これからも試行錯誤の連続を糧に、次に繋げて、自分の可能性を拡げ、ワクワクしながら新しい自分に会いたいと思う。その為にも、一瞬一瞬を無駄にせず、悔いのない日々を過ごし、そして何よりも楽しむことを忘れずに精一杯取り組んで行きたい。

高橋さんと滋野先生は同級生

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