研究所だより

生江義男の言葉(20)

2011年12月20日

新しい発見

 けさのテレビで「明るい農村」という番組でタマネギの話を取り上げていました。私は、タマネギの種というものを初めて知りました。真っ黒で、それはネギ坊主から取るのだそうです。こんなことをいったら、理科の先生方に笑われるかも知れませんが、タマネギには冬眠の期間を長くしなければいけないというのには驚きました。

 これまで、私は、タマネギに冬眠があるなどということは知らなかったのです。これは非常に勉強になりました。これからはタマネギを見たら、ああこれはいま眠っているぞ、これは起きているタマネギだなどと考えるようにしましょう。テレビひとつ見ていても、時には思わぬ勉強になることがあります。

 毎日毎日がこういうふうに新しい発見と驚きの生活になってくると、それは楽しいものですよ。勉強は、先生から話を聞くことだけだと思っていたら大きな間違いです。

 たとえば、高等学校2年で自分から進んで『日本人の骨』という本を読んでみると、それがきっかけでいろいろな思いが広がっていきます。そうすると、歴史の学習もまたいちだんと面白くなってきます。本当の勉強とはこういうことなのです。自分で見つけ出したものを、自分で追いかけていくことなのです。

 皆さんの人生は長いのですから、ぜひとも新しい発見への新鮮な驚きを失わず、自分自身で見つけ出した課題と取り組んで、"わが青春に悔いなし"という生活を送ってください。

(『続学園歳時記』より)  

熱が出るのはよいことです

2011年11月17日

人間の中にある力

 私は長い間、人間の中にある力を認めることによって、その人を健康にしてきた。熱が出たというと、皆大変な病気になったように慌てる。熱が大変な力を持っているように、悪い働きのように思い、何とかして熱を下げようとする。

 そういう時、私は「熱はその人の生命力の働きである。その人が健全に生きている証拠である。死んでいたら熱は出ない。そんなに熱を下げたかったら墓の下に行ったらよい。熱が出ないような体力なら病気は治らないし、死んでしまう。壊れた処が治ろうとする働きで熱が出るのだから、壊れている所に熱が出る。そして、細菌の繁殖を防ぐとか、細胞の入れ替わりを早くすることをやる。それが熱なのだ」と言って、熱を出せる体力があることを認めると、その人達はもう熱を怖がらない。いや熱が出ることによって安心する。

 熱を十日も二十日も半年も大事に抱えているなどということは、熱に怯えて下げよう、下げようとしているからで、人間には熱を出す力があり、その力に依って生きているのだということが分ると、熱などは余り続かない。病気に受身になった気持ちをきりかえることで、私は長い間病気を経過させて来たが、こういう力を認めると力が出てくる。

 今迄悪い働きだと思っていたものが、心の角度が変わるだけで、そういう良い力になる。そういう方向にその人の力を認めてゆくことによって、私は弱い人を丈夫にして来た。

(野口春哉著『躾の時期』より。野口春哉は生江義男と親交がありました)

生江義男の言葉(19)

2011年10月02日

こころの健康 からだの健康

 廊下を歩く場合も、ただ単に、その廊下を歩くという問題ではなく、学校内の一つの広場としての意味で、運動場やセンターと同様の価値を持つものと確信する。つまり学校のあらゆるものが"広場"であり、現代の学校生活は、その空間的な広場を、あらゆる角度から活用していくことが大切だと考える。


 広場で単に、保健体育の教師とか、あるいは一部の限られた人のみが、動きまわったとしても、学校全体の教育を改善する道にはならないと思う。


 私は、保健体育教育の行き着く目標は「清潔」だと思う。その意味でこの一月「心の健康」「からだの健康」という標題を、学校の目途としたのも、現在、最も望まれる「心の清潔、からだの清潔」ということに帰着するからだと思う。くだいて言えば「清潔」という言葉にもあるように、われわれが清潔を欲するのは、やはり、きたないなりをしているよりも、みだしなみを整えている姿の方が美しいからである。歩くにしても、ちゃんとした歩き方をしてもらいたいし、頭の中にも心の中にも、ある意味における清潔感を持ってもらいたいのである。

(『教育と健康』より)

生江義男の言葉(18)

2011年09月13日

群れ

 皆さんがたの学校生活は、一つの「群れ」の中の生活です。学校という集団の中での生活や活動は、皆さんがしっかりとしたまとまりのある「群れ」の中でみんなと一緒に」考え、行動していることなのです。

 先生と生徒というよりも、友だちどうし、皆さんがたお互いの間で、いろいろな対話が行われているわけです。対話を通して自分自身の成長というものが「群れ」の中で行われているわけです。

 誰しも子どもは、小学校の時からクラスなりクラブなりの「群れ」を作っているわけです。その「群れ」から離すと、子どもというものは自分が生存するということについて、その時ははっきりした不安感は持たないかも知れなくとも、大きくなるにつれて次第に何か偏ったり欠けたりしている点が現れてくるのです。

 学校が多くの生徒を集めて、50人ごとのクラスを作って教育しているということは、、先生の話を聞いたり、あるいは自分で質問したり勉強したりするということだけではないのです。

 「群れ」の中で一緒に生活するなかで、自分の考えをぶつけ、みんなの意見を聞き、自分自身を確かめていく場所こそ、学校なのです。

 人間は決して一人ではない、必ず仲間がいます。互いにぶつかりあい、助け合うなかで共に成長していくのも「群れ」の中でなのです。

(『続学園歳時記』より)

中国の知恵

2011年07月15日

中国の伝統医学を「中医学」と云うそうです。

その中医学によりますと、食べ物をその働きで分類すると、次のようになります。

 

①体の熱をさます

 小麦、ワカメ、カニ、緑豆、モヤシ、ゴボウ、バナナ

 

②体に水分を与える

 梅、オクラ、アスパラガス、牛乳、桃

 

③熱も冷ませば、水分も補給する

 ウリ類、トマト、豆腐、梨

 

④体を温める(暑いからといって体を冷やしすぎないほうがいい)

 ショウガ、ニンニク、タマネギ、シソ、酢、コショウ

 

⑤気を補う

 豚肉、カニ、ヤマイモ、ウナギ

 

さて、皆さんはこれをどう組み合わせて、どんな料理をおつくりになりますか。

興味と趣味を育てる

2011年07月08日

 或る人の子供で、幼稚園へ行っても、どうしても友達と一緒にあそばないというのが居た。 集中力が非常に強い子供達は、30分とか、1時間やったら次はこうする、ああすると言う時間制を好まない。あることに一生懸命集中したら、何時間でもやっている。

 其の子供も虫を見ていると3時間でも6時間でも虫を見ている。この間も私に蟻の巣を壊した時の話をして、蟻の巣の中にこういうものがあった、こんなものが有った、蟻がこうやったというようなことを話して居たが、6時間位見続けていたそうである。

 そういう子供が、1時間目は何、2時間目は何、次は遊戯、次は積木という様な遊びをする訳がない。だから幼稚園に早く入れるというのは、ただ平均的な子供を作るにはよいが、其の子のもつ、独特な性質を壊して行く行為といえないこともない。

 其の子供は幼稚園に入れられても自分を守ろうとしている。だからひとりで運動場の隅へ行って虫ばっかり見ている。他の子と遊ばない。先生達と一緒にやる時間は一緒にやるけれども、もう終えると、すぐに其処へ行ってしまう。そして「虫以外何も考えない」と親はこぼす。

 「非常にいい性質だし、それは子供の自然に育っている姿だから、それを壊してはいけない。そのことが邪魔される様だったら、幼稚園の方を辞めなさい。御飯が食べたくないと言ったら、御飯をあとにして何時間でも見させてやったらいい。ともかく、これからの日本には、注意深く丁寧に見、注意深く丁寧にやり、そしてやり出したことを何時迄でも貫いてゆける、そういう気力の充実した持久力のある人間の方が、時間通りに動くものよりきっと必要になる。だから、こういう素質は伸ばしてやった方がいい」と言ったが、これからの世の中を思うと、無理に平均化してしまうという行き方を強いたくない。

(野口春哉著『躾の時期』より。野口春哉は生江義男と親交がありました)

2011年06月21日

雨が降っていました。気が滅入っていたら、「雨を楽しもう」と云われました。

外を見ると、なかなか趣があります。ほんの少し前までは胡散臭いと思っていたのに、ちょっとした気分の変化で大きく変わるものです。

人間が一人ひとり違うように、雨にもいろんなものがあることに思い至りました。

イヌイットには「雪」という言葉がないそうです。雪の種類がさまざまで、それぞれに対応しなければならないので、その種類一つひとつに名前があるからだとか。日本語の場合には、雨のままで修飾語を冠せて分けています。

大雨、長雨、糠雨、小糠雨(粉糠雨)、俄か雨、天気雨、篠つく雨、横雨、朝雨、肘笠雨、地雨、一雨、遣らずの雨、通り雨、照り雨、日照り雨

「篠つく雨」は、篠(細くて群がり生える小さい竹)を束ねて突きおろすように激しく降る雨です。

「肘笠雨」は俄か雨のことで、笠をかぶる暇もなく肘を頭上にかざして袖を笠代わりにするからです。

「地雨」は決まった強さで降り続く雨です。地頭力(じあたまりょく)の地ですね。

「遣らずの雨」は、人を帰さないためであるかのように降ってくる雨。

 ほまち雨(私雨=わたくしあめ)…日照りのあとに、あるいは、不意に降ってきて、 限られた小地域だけに降る雨。

八重雨…ふりしきる雨。

気違い雨…晴れたと思うとだしぬけに降ってくる雨。

村雨(叢雨)…群れになって降る、または、ひとしきり強くなってくる俄か雨。

漫ろ雨(そぞろあめ)…思いがけなく降る雨。

「雨」を「う」と読むと、まだまだあります。

淫雨、陰雨、雲雨、煙雨、甘雨、寒雨、紅雨、穀雨、細雨、糸雨(しう)、驟雨、宿雨、沛雨、白雨、麦雨、飛雨、微雨、暮雨、暴雨、猛雨、緑雨、霖雨、冷雨、零雨

宿雨=霖雨、長雨。

沛雨…沛然(はいぜん)と(盛大に)降る雨。

白雨…夕立、俄か雨。

紅雨…春に花にそそぐ雨。

緑雨…新緑のころに降る雨。

麦雨…麦の熟すころ(夏)に降る雨。

飛雨…飛ぶように激しく降る雨。

零雨…静かに降る雨、小雨、微雨。

比喩としては、

血の雨、火の雨。

そのほかに

心の雨…心が晴れやかでない。

袖の雨…袖にかかる雨=涙

空知らぬ雨…涙

濡れぬ雨…松風(音が似ている)

 

五風十雨と言って、五日に一度は風が吹き、十日に一度は雨が降るのが、天候が順当だということになります。転じて、天下泰平を意味します。雨も風も必要なんですね。

新ごぼう

2011年05月19日

 新玉ねぎとか新キャベツというのはよく聞きますが、新ごぼうというのは新鮮でした。確かに、どんな野菜でも果物でも旬の採れたての時期というのがありますから、ごぼうにだって「新」がついてもいいわけです。

 猿にタマネギの皮をむかせると(そんなこと実際にやらせたことはありませんが)、いつまでもむいています。やめることをしません。ごぼうは洗っておいておくと、また黒くなってしまいます。もう一度洗っても、また黒くなってしまいます。白くなることはありません。何度洗っても同じです。「皮の近くに栄養が多いから、皮はむかずに、表面をこそぎ落すとよい」そうです。

 ごぼうには食物繊維が豊富です。腸で水分を大量に吸収しますから、便通がよくなります。そのほかにも、善玉菌を増やしたり、糖分の吸収をおさえたり、体内の余分な塩分やコレステロールなどを追い出したりします。ポリフェノールも多く含んでいますから、なんかいいことづくめですね。

さあ、どんなふうに料理しますか。

アニメ

2011年05月18日

日本語の「アニメ」が anime となって英語の辞書に載っています。
その anime の元は、ラテン語の anima で「魂、呼吸」という意味です。これが古フランス語で animal となり、「息するもの」「生き物」となりました。英語ではそのまま animal「動物」になっています。日本語から英語になった anime の元は、英語の animation「アニメーション」です。

動かない漫画に息を吹きかけて、人間のように動かす。この「息をふきかける」話の原形がイタリアのサルデーニャ島にあります。

サルデーニャ島は地中海で2番目に大きい島ですが、ヨーロッパ大陸の中で最も古い大陸の一つと言われています。神様が最初に創った島です。別名「神様の足跡(イクヌーザ Ichnusa)」と呼ばれています。

そこに「イクヌーザの伝説」があります。
神様が天地創造を終えて、サルデーニャ島を作る準備をします。しかし、手元に残った材料はほんの少しの岩くずばかりです。
神様はそのくずを寄せ集めて、海に投げ捨て、それが浮かんできたところを足で踏みつけました。こうしてサルデーニャ島ができました。その島に生命が息づくようにと豊かな自然を作り、ふうっと一吹きして動物と人間も誕生させました。

イタドリ

2011年05月09日

桐朋講座の高橋舞先生が、ブログに「いたどり」のことを書いていらっしゃいます。そのなかからご紹介させていただきます。


先日、高知のピアニスト嶋崎宏美さんが春の味覚「いたどり」の煮物を持ってきてくれました。彼女のお母様はお料理の達人で、なんと前日に山に摘みに行って調理して下さったそうです。


私は山菜全般大好きですが、「いたどり」は初めて食べました。少し酸味があって、歯触りといい、味付けといい、最高でした。

「いたどり」と一緒に筍の煮物もありました! 私は子供の頃から、好きな食べ物を聞かれると「たけのこ」と答えるほどの大好物でこれも掘りたてを持ってきてくれました。本当に美味しくて、幸せでした☆

              ↓いたどり&たけのこの煮物


         ↓後から「いたどり」の画像を送ってくれました


また食べたいです(*^^*) ドイツやオーストリアでは、春の味覚というと白アスパラガスだったのを思い出しました。食べ物から季節を感じるっていいですね。

 

こんな内容でした。小海線甲斐大泉駅から八ヶ岳高原寮まで歩くと「イタドリ」がたくさんあります。ちなみに、「イタドリ」を漢字にすると「虎杖」になります。乾くとガラガラと鳴らして遊ぶことができるそうです。

季節感

2011年04月26日

テレビの番組で、檀れいが加賀の九谷焼の作家橋本薫を訪ねていました。

その橋本薫の言葉が気になりました。

「季節を感じることは作品を作るのと同じくらい大切なことです」

都会に住んでいると、どうしても年中画一的になってしまいがちです。

自然の移ろい、旬の食べ物などに敏感になりたいものです。

この欄でも、季節感をテーマの一つと考えております。

今後ともどうぞよろしく。

春野菜

2011年04月19日

「レストラン」の語源はフランス語の「レストラ」だそうです。18世紀の前半に登場したスープの名前です。「元気を回復させる」という意味になります。素材の味が凝縮しているので、元気をつけてくれます。

ポタージュというと日本ではとろみのあるものですが、フランスではスープの中でも洗練されたものをポタージュと呼ぶそうです。春野菜のポタージュには「オゼイユ」という野菜を使います。日本の「スカンポ」「イタドリ」に近い種類です。独特の酸味があってフランス人は春になると食べたくなるそうです。

春になると苦味のある食べ物がおいしくなります。苦み成分は私たちのからだの眠っている細胞を起こすと云われていますから、理にかなっていますね。おいしいものはからだにいいんですね。

体運動習性

2011年03月11日

 蛇はニョロニョロするし、蛙はピョンピョンする。生物の体運動習性にもいろいろあるが、そのもとはそれぞれの体構造にある。魚が水中に住むのも、鳥が空中を翔るのもその体構造の故である。体構造が少し違うとその運動習性も異なる。鳶は悠々舞うが、雀はバタバタ飛ぶ。つばめが飛ぶのと、ふくろうの飛ぶのは違う。同じ鳥でも少しの構造差は大きな運動習性の相違となって現れる。

 同じ人間でも各個人は異なる。眼は二つ、口は一つ、皆立って歩き、考えて行動し、手を使って生活するには相違ないが、個々となると、尻をふりながら歩く人もいれば、大股に歩く人も、内輪に足を運んでいる人もいる。ただ歩くことだけではない。或る人は動きながら考え、或る人は考えながら動く。又或る人は考えないで行動してしまう。又或る人は甘さを好み、或る人は辛さを好む。赤きを良しとする人も、青きを良しとする人もある。胃袋の丈夫な人もおれば、心臓だけ強い人もいる。

 同じ人間でもいろいろの運動習性があるが、そのどれももとを探ってゆけば体構造差にある。牛が草を食するのもその気が温和しいからではない。虎が肉を食うのもその性が荒んでいるからではない。各々の体構造によるのであって、人間各人の行動も又もとをただせば各人の体構造の齎らす運動習性に他ならぬ。

 ふくろうのように夜ばかり起きている人もあれば、雀の如く朝日とともにさえずり出す人もいる。虎の如く猛々しい人も、羊の如く穏やかな人もいるが、各自の体構造によるのである。同じような人間のどこにそういう相違をつくり出す構造差があるんだろうか。

(野口春哉著『体癖Ⅰ』より。野口春哉は生江義男と親交がありました)

山家鳥虫歌

2011年03月10日

  山家鳥虫歌は「さんかちょうちゅうか」と読みます。岩波文庫におさめられている歌集です。「近世諸国民謡集」という副題がついていて、江戸中期の民衆の歌が集められています。
 「めでためでたの若松様よ」の祝歌をはじめ、田植え、草取り、収穫などの労働をするときの歌です。人目を忍ぶ恋の辛さも歌われています。

月は東にすばるは西に いとし殿御はまんなかに

こなた思へば千里も一里 逢はず戻れば一里が千里

恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす

生江義男の言葉(17)

2011年03月09日

 学園のタブーとしていることばに「できがよい」とか「できが悪い」というのがあります。いったい、なにを指して「でき」をうんぬんするのか。たしかに、数学や英語など、各教科には、10点もいれば3点もいます。しかし、3点をとった者が4点、5点と進歩する可能性がないとはいえません。同時に10点もまた、無限の展開が予測できるのです。このようにひとりひとりの子どものもつ可能性と限界性をたえず見きわめ、その子どもの能力が最大限に発揮されるとき、教師が教育のなかで創造する芸術性がはじめて開花するのです。

(『明日を開く人間教育』より)

可能性の空想

2011年03月08日

 12歳になる女の子で、水泳がまったくできなくて水にはいるのが怖いという子がいた。その為に学校の水泳にも参加できないという。

  それでは、その子の空想のなかに「泳げる」という自信を植えつけようと思い、「息を一杯に吸い込んで、プールの底に沈めるかどうかやってごらん」と助言を与えたら、息を吸い込んで潜ったそうである。

 するとどうしても潜っていられなくて浮いてしまった。その浮いたということが「泳げる」という空想に結びついてしまって、それ以来泳げるようになった。

 体の中に空気があれば浮かぶのは当り前のことである。その当り前のことをやらせたら、泳げるという自信ができて泳げるようになってしまった。

 先生や友達は突然の変化に驚いて、「どうして泳げるようになったの」としきりに訊いた。その子が私の手紙を先生に見せたら、先生はそれを謄写印刷にして、クラスの泳げない子供全部に渡したそうである。そうしたら、学校中で泳げない子が一番多かったそのクラスが急に全部泳げるようになったという報告が来た。

  私は息がある限り人間は沈めないものだということを教えただけなのに、それがいつの間にか「泳げる」という可能性を空想の中で確信してしまったのである。

 空想の中にその可能性を信じてしまうと、自分でそれをやってみたくなってくる。その「やりたくなってくる」ということが一番大切なことである。

 (『躾の時期』より:生江義男と親交のあった野口春哉の著書です)

春の彩り

2011年03月07日

産卵を前に桜色に輝く桜鯛
脂がのって最も美味しい魚の王様
煮ても焼いてもうまい魚
一押しは酒蒸し!

春ならではのさっぱりした味わい
初かつお刺身

旬の脂ののった鰹をあぶりました
かつおたたき

春の香ただよう味わい集合
生ふき 生筍 新ごぼう そらまめ

フレッシュ野菜で春のサラダを
アスパラガス きゅうり トマト ポットレタス

新聞の折り込みちらしが春を運んできました

生江義男の言葉(16)

2011年03月04日

教育の原点

 私自身、「教育の原点は、つねに教師にある」と考えています。教師と児童・生徒のぶつかり合いから作り出される雰囲気の中から、たえず問題が提起されなければならないと信じています。

 新しい未解決の問題に直面し、そのことにどのように対処したかという自己の体験を生徒に知ってほしい、そのことが生徒ひとりひとりの明日の前進のためにいささかでも役立ってほしい、ただ、それだけの姿勢なのです。

(『続学園歳時記』より)

生江義男の言葉(15)

2011年03月03日

 私は故野口春哉先生(日本整体協会の創設者)の教えを受けている。先生は五十年近く整体運動による「心の健康・身体の健康」を提唱実践され、「気」によって「それぞれの人は、自分で身体を再生することができる」と説かれた。そして『育児の本』『潜在意識教育』『体癖』をはじめ、数多くの著書をものされている。はじめお会いしたころ、先生は私にこんなことをいわれた。「学校では、どうして男も女も同じ体操をさせているのですか」。答えに窮した私に先生は次のように言われた。

 「男の場合、体育の目標は、一瞬に力を集中させることに意味がある。これに対して、女は、ジワジワと力を出せることが必要で、お産のときがその具体的な例なのです。どうです。体育のカリキュラムを根本的に検討されては?」

 「教育は、出生時、いや、胎児から始まる。乳幼児期において、潜在意識が形成される。出産直後、子どもが遭遇するのが『おどろき』である。産湯のとき、赤ん坊がオギャーと声をあげると、大人たちは元気だという。もってのほかである。胎内で羊水の温度が三七度なのに、産湯の温度は四〇度内外がふつうである」等々。

 私の教育観が、このことばで”コペルニクス”的転回をとげたといっても過言ではない。

 戦後、私は女子教育にとりくんできたが、果たして生徒たちに「将来の母としての教育」を行ってきたであろうか。ある人は、「家庭科」の教科指導にそれを託したというかも知れないが、それは「否」である。つまり私たち女子教育にたずさわるもの全員が、このことを意識しなければならないのである。

(『明日を開く人間教育』より)

3月3日

2011年03月03日

 きょうはひなまつりです。ひなあられを用意して、皆様のお越しをお待ちしております。

 もとは、人間の災厄を人形に移して、川に流していました。厄払いです。

 「三」は「み」と読むことができます。3月3日は「33」で「みみ」です。「3」は耳のかたちにも似ています。きょうは「みみ」の日です。

 口は一つで、耳は二つあります。俗に「あまりしゃべらずに、耳をよく傾けなさい」と言われます。目も二つですから、「よく見なさい」ともなります。こころしましょう。

 

生江義男の言葉(14)

2011年03月01日

後ろ姿

 よく吉川英治さんが、「どこから見れば、人間がよくわかるか」という話をされて、人間は後ろから見るのがいちばんよいと言われていました。

 皆さんもよく後ろから来て、すうーっと私を追い越していきますね。そのときの後ろ姿を見ると、この生徒はしっかりしているなとか、だらしがないなということがよくわかります。

 私が見るのは、上靴をスリッパみたいにつっかけて歩いているかどうか、ただそれだけなのです。前から見ると立派に見えても、後ろから見るとダラッと見えます。それではいけません。

 人間の心は、姿に現れるといってよいでしょう。とくに背中に現れます。芝居などでも、役者の後ろ姿を見ると、その役者が大根役者かどうかということがすぐわかります。

 前から見ていれば、役者は笑ったり、悲しんだり、顔で表現しますから、そのしぐさで気持ちがわかります。

 後ろから見たときにも、ほんとに笑っているのか、それとも悲しんでいるのか、それを観客に感じとらせる演技ができるかどうか、これが役者の価値なのです。

 芝居を見るときにも、気持ちというものがどういうところに現れているかを見てほしいのです。

(『続学園歳時記』より)

からだ全体の動き

2011年02月28日

 藤原新というマラソンランナーが靴の中敷の話をしていました。

 走る目的にあわせて中敷を特別にあつらえたそうです。それを使うと足の指に力が入るようになり、足の指に力が入ると、土をかきだしているような感じで走りやすくなったそうです。

 効果はそれだけにとどまらず、足の指に力が入ると足の裏が収縮し、さらにはその収縮がふくらはぎに伝わり、そしてふくらはぎから太ももへと波及していき、からだ全体が無理なく走る態勢になったと語っていました。

 日常の生活では、足の親指のつけねの膨らんだところに力が入るのが健康によいと云われています。「走る」には、日常とは違うはたらきが必要なようです。

 桐朋講座の一つに「歌と表情筋」があります。日常の生活で動きにくくなった筋肉をほぐします。ストレスが解消して、顔には笑顔があふれるようになります。

 授業に参加してみました。からだをほぐしたあとで、両腕を肘を曲げて胸の高さまであげるように云われました。その姿勢で歌を歌います。とても楽に声がでました。呼吸が腹式呼吸になっていました。

 歌を歌うときには「腹式呼吸をしなさい」と云われます。そのために「おなかを膨らませて」とか「背中に空気を入れて」などと方法が示されますが、なかなかうまくいきません。それが腕をあげるだけで簡単にできました。「少年時代」のころ、小学生は起立して、両腕を伸ばして教科書を音読していまし。その姿も腹式呼吸を引き出していたのではないでしょうか。

 人前で話すときに腹式呼吸にすると、声がよく通ります。落ち着いた感じで、長い時間、話すことができます。聞いている人も聞きやすいのではないでしょうか。起立して音読させることは上手な話し方を身につける方法だったように思えます。

 カラオケでのどを嗄らす人が多いようです。マイクを両手で持って、口の高さに平行になるように持つと発声がよくなるように思います。

 私たちのからだは全体でバランスをとって動きます。一か所だけに力がこもると全体がうまく動きません。武道などのかまえや姿勢には、からだ全体に作用するわざが込められているように思います。

 机に向かって勉強するときの姿勢もないがしろにはできないような気がします。どういう姿勢だと勉強がはかどるのでしょうか。少し研究してみようかと思います。ご存知の方いらしたら、教えてください。

生江義男の言葉(13)

2011年02月25日

ハスの花

 私は皆さん方の顔を見るたびに、いつもハスの花を思い浮かべます。

 この花はエジプト・インド・中国・日本と伝わってきたものです。インド人も、エジプト人も、この花を一番清らかな花と考えたのです。インドでは、ハスの花のことを心臓、ハートという意味にも使っているそうですし、あらゆる人間はハスの花から生まれたとも考えているようです。

 ハスの花は泥水の中から出てきますが、それでも清らかな花を咲かせます。そういうことが今から3000年ほど前にインド人、エジプト人、それにメソポタミア人の考え方の一つの基盤になっていたのです。

 私は皆さんに、この泥水のようにどろどろした時代の中のハスになってほしいと思っています。どろどろとした時代に生きていても、その汚れに染まらずに、その中でハスの花のような”清らかな生命”を育んでいってほしいと願っています。

(『続学園歳時記』より)

雪花菜

2011年02月24日

辞書をひいていたら「雪花菜」という言葉に出会いました。「切らず」と読みます。関東では耳慣れないかもしれませんが、「おから」のことです。

豆腐をつくるときの、絞りかすです。中身を包む「殻」に「お」をつけて、「おから」になりました。「おから」は「空(から)」に通じるので縁起が悪いと、同じ白い色をしている花の名前を使って「卯の花」とも呼ばれます。

豆腐を食べるには、包丁で切らなければなりませんが、おからは切らなくてすむので、「切らず」になりました。京都では、ご縁が切れませんようにと月末に食べる習慣があるように聞いています。

それにしても、雪花菜とは素敵な名前ですね。今の季節に似合います。当て字のなかに「風信子」というのがあります。花の名前で、風の便りを運んできてくれるような感じです。どんな花だと思いますか。ヒアシンスです。

当て字には、音を表すものもあれば、意味から出来るものもあります。音から出来たものに「盤谷」「馬尼刺」があります。バンコクとマニラです。意味を表すものには「牛津」「金門橋」「激光唱片」があります。オクスフォード、ゴールデンゲートブリッジ、CDです。音と意味の混じったものに、「剣橋」のケンブリッジ、「因徳網」のインターネットなどがあります。

それにしても「多悩」は音を表しているようで、ダニューブ(ドナウ川)のことですが、ほかに何かなかったでしょうか。また、「女無天」というのもあります。これはミントですが、どのようにして出来たのでしょうか。

当て字とはいえ、あてずっぽうに漢字をあてはめたのではなく、ずいぶんと工夫しているようです。知恵のかたまりのようにも思えます。

光の春

2011年02月22日

 室内ではまだ暖房が必要です。部屋の窓から外を見ると陽射しはポカポカと暖かそうです。冷たく冷えた寒気のキリッとしたとげとげしさがなくなってきているようです。

 その光に誘われて外へ出てみました。まぶしくて目を開けているのがやっとです。ところが、まだ空気はひんやりとしています。日の光だけが春のようです。光の春です。

 受験に一段落した生徒が学校に顔を出すようになりました。もうすぐ春ですね。 

生江義男の言葉(12)

2011年02月21日

 テストはレントゲン

 これは極論かもしれませんが、テストで百点をとった者がよくて、50点しかとれなかった者が悪いとは言えないと思うのです。

  子供がほんとうに努力してもわからないところが、そのままテストの点数に出てくるわけですが、わからないところを教えてやるのが教師のやらなければならない仕事なのであって、できたほうはどうでもよいわけです。

 私はいまでも、子供のころに試験で間違えたことだけはよく覚えています。ああ、あそこを間違えた、ここも間違えたということを……。私は、「試験というのは、いわばレントゲンの検査と同じで、自分の悪いところがわかるのだから、どこを治せばいいかを知るためにやるのだ」と子供たちに言っています。

 「そのときの点数が悪くても、それだけ自分がわからないところを発見できたのだから、悲観するにはあたらない」というわけです。これが世間ではなかなか通用しないのです。ですから、せめて自分の学校の生徒だけにでもと思って、折にふれて話していますので、試験になると「レントゲン、レントゲン」と子供たちは言っています。

(『教育を考える』より) 

冬の日の幻想

2011年02月17日

 寒い季節です。チャイコフスキー交響曲第1番「冬の日の幻想」はいかがでしょうか。美しいメロディに溢れています。

 チャイコフスキーの交響曲というと、4番、5番、6番あたりが思い浮かぶかもしれません。私自身(とは言っても私が誰かはお分かりにならないかもしれませんが)、1番に「冬の日の幻想」というタイトルがついていることを知ったのはつい最近のことです。演奏会の案内が目にとまり、そこにタイトルがついているのに気づきました。もしかしたら、1番を聞いたのが暑い夏だったので、冬のイメージが湧かなかったのかもしれません。

 改めてこの季節に聞いてみました。いい感じです。そのときの幻想が曲を弾きたてていたのかもしれません。何を思い描いていたのかですって。それはヒ♡ミ♡ツ。

       *        *       *

 アイスクリームと名乗るには一定の脂肪分が含まれていなければなりません。ジュースにも似たようなしばりがあるようです。「りんごジュース」は国産のりんごが原料でなければなりません。もしリンゴが外国産の場合には「アップルジュース」になるそうです。この話を生徒にしたら、「みかんジュース」と「オレンジジュース」もそういう違いですか、と聞かれました。まだそれについては調べていませんでした。

生江義男の言葉(11)

2011年02月17日

目の高さ

  中学の1年生に話をすることがよくあります。私は今65歳ですから、中学の1年生からみたらもうおじいさんの年齢です。彼らは生まれたときから私が歳をとっているような感じをもっているわけです。

  そういうときに、「私が中学生のとき」という言葉をひとこと使いますと、子供たちはホッとするのです。「ああ、やっぱりそういう時代があったのか」と。これは、生徒と話をする際に非常に大切なことなのです。

  ですから、お父さん、お母さんも頭から怒るのではなくて、「おれがおまえの年ごろには」という言い方が必要だと思います。少しくらいウソが入ってもよいのです。ドラマチックにやった方が。それを多くの親御さんはどうしても頭ごなしにやるものだから…。

  「かつては自分も子供だった、やはり同じような自己形成をしてきたのだ。失敗もあったのだ、いまでも未完成なんだ」という姿勢が、子供を育てる親には大切ではないでしょうか。

  教師にしてもそうです。教師が何か完成した人間であるかのように生徒に接しているうちは、血の通った教育はできないだろうと、私は思います。

  (『教育を考える』より)

大学受験を控えているみんなに

2011年02月16日

 テストで緊張してしまうと、実力を発揮することができません。そこで緊張しないですむには次のようにしたらどうでしょうか。

 お守りを用意しましょう。最近の流行は「タコ」です。英語で「オクトパス」つまり「置くとパス(合格)」ですから、そばに置いておきましょう。

 試験場に持っていけるお守りがあるといいでしょう。用意できたら「このお守りを持っていれば安心できる」と自分に暗示をかけておきます。いい加減な気持ちではなく、しっかりやると効果大です。

 テストが始まっても、すぐに問題に取り掛からないで、大きく深呼吸しましょう。そして答案用紙に指で5という数字を大きく書きましょう。これで気持ちが落ち着きます。これも「5を書く」ので「ごうかく」になりますね。

 不安な気持ちになったら、その気持ちを書き出すといいでしょう。書き出せば、心から吐き出してしまうことができます。

 それでも緊張してしまったら、「これまでにできることはやったんだ。自分を信じよう」と思いましょう。

 マイナスのイメージは持たない方がいいのですが、たとえ失敗しても、あなたの価値が変わるわけではありません。次のチャンスに向けてまた挑戦しましょう。

 いい知らせ、お待ちしています。

生江義男の言葉(10)

2011年02月15日

しかしの教育

 ミレーの絵ではありませんが、「落穂拾い」ということの方が大切なのです。成績というものは、それは千差万別です。一人一人の子供にはそれぞれ嫌いな科目もあるだろうし、自分でもっとやってみたいという科目もあるだろうと思います。だからこそ、子供一人一人に対して先生がどのような目を向けていくかが大事なのです。

 理想的にいえば、理想的というよりもあたりまえのことですが、子供のよさをなんとか見つけようとする姿勢ですね。「お前はなんでもだめだな、しかし」と、これが大切なのです。私が、いつも私の学校の教師に言いますのはこれです。「この『しかし』という言葉を忘れるな、どんなに厳しく指導してもよいが、最後に『しかし、こういうよいところがあるのだからね』ということをつけ加えることが教師の仕事である」と。

 (『教育を考える』より)

生江義男の言葉(9)

2011年02月14日

文化祭 (季節が違う点、ご容赦ねがいます)

 文化ということば。それは数千年来、わかったような、またわからないような意味ですぎてきたし、すぎようとしている。では、桐朋学園で、文化ということばを、どのようにとらえていったらよいだろうか。その答えのひとつに、文化祭がある、と思う。

 くる年どしの、いわゆる祭のなかで、生徒のみなさんは、頭で考え、身体でつくりあげた収穫を、神にささげる。 神とは? それは、生徒それぞれの心のなかにある、と思う。

 そう考えると、文化という意味も、ぼんやりとしているが、つかめてくるのではないだろうか。 つまり、文化は生徒の躍動のなかに生まれてくるもんであり、桐朋学園の青春のエネルギーの表現に、桐朋の文化が求められなければならない。こう考えると、文化祭は、単に年中行事的なくり返しであってはならない。

 生徒の生命のいぶきを、私は文化祭から感じとろうと、それを期待している。

(『教育八方やぶれ』より)
 

生江義男の言葉(8)

2011年02月10日

 教師は自分の課題を追求せよ

 「話題」を豊富にするためには、私たち教師は、たえず、課題を追求する教師でなければならない。そのため、私は、新任の教師に対しては、いつも次のように話している。

 「教えるということも大切だけれども、たえず、課題をもって生きていくことが大切だ。たとえば、学問でも芸術でもなんでも構わないから、それに打ち込んでいるようなものをもち、教育と並行させていく、という態度である。私は熱心に教育をやるんだ、ということだけでは長い教員生活のなかでは、どうしてもそこにたるみも出てくるし、行き詰まるという問題も出てくる。

 例えば、歴史学を深く勉強している教師がいるとする。そのことは直接に教育に結びつかなくとも、児童や生徒のほうは、やはり、その教師が意欲をもってそういうことに取り組んでいるんだ、ということを受けとめるようになる。私はそれが教育の上でもっとも大切な問題だと思っている」と。

 つまり、たえず課題を追求する教師が"ゆとり"と"充実"した生活をもつことができるのである。

(『明日を開く人間教育』より)

アイデアル

2011年02月10日

  世界史の先生が「高校2年生の授業のことだけど、生徒のなかに<バスチーユの監獄>とか<ベルサイユ宮殿>という言葉が覚えられない子がいるのよ」とぼやいていました。それを聞いて「英語だと覚えておきなさいではなくて、授業中に覚えさせてしまうよ。授業中にその言葉を3回言わせてごらんよ」と返すと、「そんなこと、やれないわ」と言われました。

 何かを覚えるには何回も繰り返すといいのです、苦痛でもあります。繰り返しの練習をしなくてもすむようにと、英語の授業で用例を例文で示す時には一般的な he とか she とかを主語にしないで、具体的な人物のやったことや誰もが知っているような事柄を例に取り上げます。中学2年で過去形を教えるとします。ニワトリのひなと卵そしてオムレツの写真を見せて、”This is a chick. Yesterday it was an egg.”  ”This is an omelet. It was an egg a few minutes ago.”という具合です。印象が強いとその場で瞬時に覚えられます。

 日本史の男の先生が「聖徳太子」の「太」が「大」ではなくて「太」であることを覚えさせる方法を教えてくれました。気をつけの姿勢で「聖徳太子は男でござる」と言ってすぐに、両手両脚をぱっと左右にひろげてみせるのだと。(ちょっと品がなかったでしょうか)

 中学1年、2年では授業中に単語や文章を覚えさせてしまいます。さすがに同じことを5回は繰り返させませんが、3回ならやらせることができます。3回同じことを繰り返させてから1人ずつ出来たかどうか確かめていくと、まだ出来ていない生徒がいます。そういう時にはこんな手を使います。

 単語のumbrellaが読めないとしましょう。「よし。それなら、これから僕がおまじないをかけて、出来るようにしてあげよう。ここからこういう順番で5人の人を通じて、僕の能力を君に伝えよう。しっかり受け取ってね。じゃあ行くよ。アムブレラ」と言うと、指名された5人が1人ずつ順に「アムブレラ」、「アムブレラ」、「アムブレラ」、「アムブレラ」、「アムブレラ」と言います。「みんなありがとう。よし、これで出来るようになっているよ。さあ言ってごらん」「アムブレラ」「やったね。おめでとう」クラスの生徒も拍手します。

 このおまじないのタネは同じことを5回聞くことにあります。まずはしっかりと聞き取ることが大切で、聞き取れると真似ができるようになります。学年が進むと授業中にやらなければいけないことが多くなってきて、このような作業はなかなかできにくくなります。それでも授業中に少しでも多くのことを覚えさせ、生徒が出来なかったことを出来るようにしてしまいたいものです。
 

雪下野菜

2011年02月09日

 寒くて身体が縮こまってしまいます。つい猫背になってしまいます。でもそこですくっと背筋を伸ばすと、寒さが退散するような感じです。見た目にもすっきりします。

 人間だけでなく、野菜も雪の中や下に置かれると縮こまるようです。雪国の野菜の保存方法として、土のなかに埋めておきます。雪が降った時にそなえて、取り出しやすくするために、埋めた上に菰(こも)をかけておきます。専門的な言葉では「雪中貯蔵」とか「雪下貯蔵」といいます。(同じ「雪」を使った表現なのに、かたや「せっちゅう」、かたや「ゆきした」というのは面白いですネ)

 これにより鮮度が維持できます。それに加え、野菜は冷たさから身を守るために養分を凝縮させます。その結果、驚くほど甘味が増してきます。キャベツ、人参、ネギなどは付加価値がついてブランド化してきています。

 秋に葉を落とした樹木も動物が冬眠するように新しい春に向けて準備しています。草の芽、木の芽がわずかずつ萌え出してきています。「冬萌」というそうです。

 私たち人間も暖かくなったらすぐに動き出せるように、今から準備しておいたほうがいいみたいです。

生江義男の言葉(7)

2011年02月08日

春夏秋冬

 日本は島国で、かつ山紫水明の地に恵まれ、春夏秋冬の非常にはっきりした国柄だけに、日本人の思想の根底には豊かな自然観が息づいています。そこで、いろいろな面で、季節に応じた教育の形態というものがこれから考え出されていかなければなりません。

  外国の教育者が日本の教育の仕組みについて疑問に思うことの一つに、「日本には四季の変化のなかで生み出された文化・芸術・伝統、たとえば和歌・俳句などの文学作品が数多くあるのに、日本の教育のカリキュラムは春夏秋冬をふまえたうえで組み立てられているのか」ということがあります。

  まったくそのとおりで、日本の学校教育には、自然環境のなかで生み出されるべき生活というものがほとんどありません。近ごろ、生徒の暴力や非行の問題がしだいに低学年化しているということも、その潜在意識のなかに自然環境に対しての順応化、または生きとし生けるものへの愛情の希薄さがあるのではないでしょうか。

 (『教育を考える』より)

生江義男の言葉(6)

2011年02月07日

教師は産婆役

 いうまでもなく、児童・生徒はあすの大人である。そして、あすの日本の創造者でなければならない。

 少なくとも、人生のエネルギーが若き青春で涸渇することなく、壮年期における思考・創造力の源泉たらしめることが必要である。そのためには、児童・生徒の、それぞれのもつ能力を教師は静かに見守り、育成することが大切である。

 しかし、現実は一片のテストが、その無意味な評価数字の羅列によって、たえず、児童・生徒を格付けし、家庭・社会もまた、それが唯一無二の神託として拝受するのみである。

 こうしたひずみを改める道はなんだろうか。それは、まず、教師が「児童・生徒に教え込むのだ」という安易な錯覚を捨て、「児童・生徒のそれぞれの豊かな思考力・想像力を引き出す産婆役である」ということを改めて考えてみるべきではないだろうか。

(『教育八方やぶれ』より)

生江義男の言葉(5)

2011年02月04日

 風土

 いつも思うことだが、奈良の寺院や仏像は、かわいた、ホコリっぽい日に鑑賞させたい。東大寺戒壇院の、あの四天王像をはじめ、天平芸術には、なにか、西域や黄土地帯の砂漠的なにおいが感じられる。
 反対に、京都では、雨がほしい。それも、しとしとと降るぬか雨である。大和絵的な、京の自然には、いつも、大陸的な土のかおりでない、みずみずしさがほしいのだ。

       *      *     *

 新幹線に乗るたびいつも思う。
 地域的な感覚と時間的な感覚とが、文明の進歩につれてますますズレてくる。東京駅前で食べたソバのかおりが、まだ、口に残っているうちに、もう京都についてしまう。どうも江戸から上方への気分転換の調整ということが、ある意味で、修学旅行の課題かも知れない。

(『教育八方やぶれ』より)

節分

2011年02月03日

 節分に豆まきをします。豆まきについては1月31日に書いてあります。今回は「まめ」という言葉について考えてみましょう。

 「まめ」は「真実(まみ)」が変化したものだそうです。あるいは「真面(まめ)」から来たとも言われます。人柄の「まめ」は漢字にすると「忠実」になります。

 このように「まめ」は「真面目」から始まりました。真面目で誠実だと、労苦をいとわずに「まめ」に働きます。一所懸命働くには「まめ」であることが必要です。つまり、身体が丈夫でなければなりません。「まめ」には「真面目、誠実」「労苦をいとわない」「身体が丈夫」の意味があります。

 「まめ」に「こ」をつけると「こまめ」になります。てきぱき、かいがいしい様子です。「まめ」を繰り返すと「まめまめしい」になり、これも機敏に動く様子になります。

 豆を食べて、マメにあやかり、まめになりましょう。

生江義男の言葉(4)

2011年02月01日

 美しさとは

 皆さんはテレビのドラマを見ているときに、ふと「ああ、この人は美しい」と思うことがあるでしょう。何が美しいのでしょう。どこが美しいのでしょう。顔でしょうか。着物でしょうか。

 私は、からだ全体から出てくる美しさを「美しい」と表現すると思います。いかに顔や姿だけを整えても、それだけでは駄目だと思います。「人間の美しさは後ろ姿にある」と言った人がいます。要するに、からだ全体の美しさを言っている言葉だと思います。

 また、美しさにはどうしても「清らかさ」とか「清潔」ということが伴います。今の皆さんの美しさは皆さんの素肌――何もつけない、いわゆる化けないもの――にあると考えてほしいのです。

 大人になるということは、本当の美しさというものを作り育てていくことだと思います。若い女性は美しさにあふれています。歳をとってお婆さんになっても、それにふさわしい美しさというものがあると思います。

 学生としての美しさは、やはり内面に潜んでいるもの――ちょうど冬眠のようにまだ眠っているもの――がだんだんと出てくる。そういう美しさであると言えるでしょう。

 学問・読書・スポーツ・お稽古事などは何のためにやるのでしょうか。結局は美しさを表すためなのです。でも美しさには標準がありません。それを測るモノサシがないんです。昔は「柳腰(やなぎごし)」とか「瓜実顔(うりざねがお)」とか「富士額(ふじびたい)」などの美人の標準がありました。現代は各人各様、まことに個性的です。要するに、美しさというものは時代と一緒に移り変わっていくわけです。

 でも、昔から変わらない美しさもあります。皆さんのように教養豊かな人たちの顔と、教養のない人の顔と
違いです。この違いは今も昔も変わりません。「教養美」とでも言いましょうか。

 「教養」というのは、英語でカルチャー(culture)と言います。これには「文化」という意味もあります。この語源はカルティベイト(cultivate)です。すなわち「耕す」ということです。おおいに土地を耕して、そこから出てくるもの、これが「創造」なのです。

 皆さんはいつも気持ちの奥底に「心のなかから美しくなろう」という願いを持っていてもらいたいと思います。こういうことが、桐朋の教育の大きな目的の一つなのです。

(『学園歳時記』より)

豆まき

2011年01月31日

 2月3日は節分、豆まきです。
 豆は米とともに古来より霊力が宿ると云われています。豆をまいて邪気を払います。

 豆をまくときには、家じゅうの戸を開けて、鬼を追い払います。つづいて、福を呼び込みます。
まき終わったら、福が出て行かないように戸を閉めます。

 戸を閉めたら、自分の年齢もしくは数え年(自分の年齢に一つ足した数)の数の豆を食べます。
これは「年とり豆」と呼ばれ、1年の無病息災を祈るならわしです。

 豆まきの豆は、炒り大豆です。この豆は固いので、噛むと小さい子には歯やあごを発達させるのに
役立ちます。大きい人は、噛むことで頭脳が明晰になるそうです。

 また、大豆は「畑の肉」「畑の牛肉」「大地の黄金」と云われ、良質のたんぱく質が肉の量に
匹敵するくらい含まれています。栄養も豊富です。

 ならわしだからと侮ってはいけませんね。知恵の産物です。

 ところで、コンビニでは恵方巻を宣伝しています。

 恵方巻きは大阪あるいは愛知で発祥したものだそうです。
巻きずしは「福を巻き込む」もので、、具は七福神にちなんで7種類だとか。
丸かじりをするのは「切る」と「縁を切る」ことになるからと云われています。

 翌日の4日は立春です。春よ来い。早く来い。

 

生江義男の言葉(3)

2011年01月28日

(除夜の鐘に関する話をしたあとで)

 ところで、お寺の鐘というのはどう鳴るか知っていますか。お寺の鐘は「ぶぉーん」と鳴ります。どこか余韻があります。余韻のある鐘の音がしみじみと人生を感じさせるのです。

「カン、カン、カン」と鳴るのは消防の鐘です。非常に波長が短いでしょ。「カン、カン、カン」と鳴る半鐘は、それによって人の注意を早く引きます。火事の時に「ぶぉーん」なんて鳴ったら、消防士にしても深く考え込んで、ホースを持つ手も鈍ってしまいます。

 お寺の鐘の「ぶぉーん」となる余韻を「寂滅為楽(じゃくめついらく)」と言います。人生の寂しさに徹して、はじめて楽しみを得るという仏教の言葉なのです。このように鐘の音一つにしても、日本の鐘というのはそれぞれ深い味わいを持っていますね。

(『学園歳時記』より)

生江義男の言葉(2)

2011年01月26日

季節感をたいせつに (季節がずれている点はご容赦ねがいます)

 皆さんがたの中学の2年のころというのは、感受性が非常に鋭敏なときですから、
それをどこに向けたらよいかということが大切です。私はそれを季節に向けたら
いいと思うのです。けさ私が学校に来るとき、小学校の通路を通ってきたのですが、
落ち葉がパラパラと私の肩へ落ちてきました。もう落ち葉の季節なんですね。
なかなかいいものです。つぶさに観察しますと、単調な生活のなかにもいろいろと
変化があるものです。

 不幸なことに、このごろは鳥があんまり飛んで来なくなりました。もとは学校の
窓からでも鳥が眺められました。このごろは中庭に鳩がだいぶおりてきていますが、
武蔵野の森のあるあたりに行ってみれば、まだまだたくさんの野鳥がいることでしょう。

 そういう自然の変化、生活の変化に気がつかないでボーっとしているということは
もったいないことです。それだけ暮らしを無味乾燥なものにしているわけですから。

 (『学園歳時記』より)

生江義男の言葉(1)

2011年01月24日

教育研究所のホームページのなかに「教育研究所とは」のページがあります。そのなかに「生江義男の言葉」という項目があります。まだ準備中ですが、素材となるものをこの欄で順次ご紹介しましょう。

 よそから見ると、どうもこの学校はのんびりしているとよく言われます。のんびりしていることの良し悪しはともかく、よく考えてみますと、大切なことはのんびり見えるなかに自分の時間を持っている、ということですね。自分の時間のなかで、お互いに向かい合って話し合いをするということ。これは、それぞれの人の価値をお互いに分からせるということになります。(『学園歳時記』より)

ツバキの花

2011年01月21日

ツバキの花が寒さに負けずに咲いています。ツバキは漢字で書くと「椿」です。春の花です。厚葉樹「あつばき」または艶葉樹「つやばき」が訛って「つばき」になったと言われています。学名はcamellia japonica ですから、日本原産のように思えます。

日本原産とも中国原産とも言われますが、ネットには「16世紀にイエズス会助修士ゲオルグ・ジョセフ・カメル(G. J. Kamell)が、フィリピンでこの花を入手してヨーロッパに広めた」という記述がたくさんあります。学名はそのカメルの名前がもとになっています。

ツバキに見かけがよく似たサザンカ(山茶花)は花びらが一枚ずつひらひらと散りますが、ツバキは花が丸ごとポトリと落ちます。首が落ちる様子を連想させるので、武士には人気がなかったようです。見方を変えると、盛りの過ぎた見苦しい姿を見せない潔さと見ることもできるのではないでしょうか。

ともあれ、寒さのなかで凜と咲く姿勢は見習いたいものです。

生姜湯

2011年01月19日

20日は大寒です。少しでもからだを暖かくしたいものです。

桐朋講座のなかで「今日からあなたもクラシックファン」と「広がるクラシック音楽の世界」の

二つの講座を担当なさっているのが、ピアニストの高橋舞先生です。

高橋舞先生はこのところ全く風邪を召したことがないそうでうす。

その秘訣をブログで紹介なさっていました。

その秘訣は生姜湯でした。

皆様もお試しになってはいかがでしょうか。

鏡開きを終えて

2011年01月17日

 鏡開きをしたのは12日でした。それは前回の「研究所だより」でご報告しましたが、鏡開きのあとでこんなことがありました。

 14日(金)に中学3年生数人が研究所にやってきました。「先生、そろそろお汁粉の季節ですね。今年はいつやるのですか」と尋ねました。

 「そうか、去年来たよね。それで今頃のことだと思い出して、今年も来てくれたんだ。よく覚えていてくれたね。とても嬉しいよ。でもね、実はもう終わってしまったんだ。本当は11日なんだけど、その日は学校の始まった日だったから準備ができなかったの。それで12日の水曜日にやったんだよ。ともちゃん(仮名)が友だちを連れて来て、一緒に食べていったよ。鏡開きは暦では1月11日。覚えやすいでしょ。しっかり覚えて、来年は11日に来てよ。その日でないかもしれないけれど、それより前ということはないから。待っているよ」

 研究所で鏡開きをするようになって3年になります。14日に来た生徒たちは昨年の1回しか経験していませんが、いい思い出となって残っていたようです。こうして年中行事は継承されてきたのでしょうか。研究所では他の行事もできるだけ数多く実施していきたいと思います。

鏡開き

2011年01月14日

リニューアルのお知らせのまま長い時間が経ってしまいました。ようやっと準備が整いましたので、これからできるだけこまめに更新していこうと思います。教育研究所の新たな発信媒体として活用していくつもりです。どうぞよろしくお願いします。

 12日に1日遅れの鏡開きをしました。お供えをお汁粉にしました。およそ80名の方がお見えになりました。連絡の届かなかった皆様、勤務で手が離せなかった皆様ごめんなさい。年中行事だからと今年もやって来た中学生、センター試験準備でご利益にあやかろうという高校三年生、授業でのプレゼンの打ち合わせに来た短大生もご相伴してくれました。

日頃は顔を合わせる機会の少ない人々が偶然居合わせてなごやかに話をしていました。いい雰囲気でした。なかにはその場で「鏡開き」の語源を授業で話をしようと思いついた先生もいらっしゃいました。

季節が巡るとその季節ごとにさまざまな行事があります。古来からの日本人の知恵だったように思います。教育研究所ではこのような行事を大切にしていこうと思います。