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専攻科演劇専攻試演会『いまわのきわ 死ぬ』


「いまわのきわ 死ぬ」 作セルジ・ベルベル 演出ペーター・ゲスナー教授

6月27日(土)・6月28日(日) 専攻科演劇専攻試演会「いまわのきわ 死ぬ」を上演しました。


 6月27日(土)・6月28日(日)に専攻科演劇専攻試演会『いまわのきわ 死ぬ』を上演しました(キャスト・スタッフ等の詳細はこちらから)。脚本はスペインのカタルーニャの鬼才、セルジ・ベルベル。それをペーター・ゲスナー教授の演出のもと、専攻科の学生たちが真摯な演技で、その世界観を表現しました。

タイトルは一見するとショッキングかもしれませんが、いくつものエピソードによって物語られる本作は、死へと向かう間際の瞬間の人々を写しとったものです。
小説家の夫妻、母と子、警察官たち、病院の患者と看護士などなど、いくつものシーンがそれぞれ綴られます。時にそれらの話が繋がったり、ときにまったく関係なく分かれたりしながら、私たちの人生と同様に、人間の関係と邂逅、偶然と必然の世界が描かれます。

それをまだ若い専攻科の学生たちがあえて演じることは、私たちの人生というものが、いつ終わるかもしれない不安定な中にあり、人生というものは日々死へと近づく行為であることをあらためて観客に提示しました。しかし同時に、だからこそ、死から照り返された生、生きるとはなんなのかが深く見るものの心に刻まれます。

たとえば、学生が演じる母と高校生の子供の姿は、親とはなにかを考えるきっかけとなり、子の姿はかつて高校のころの自分自身を振り返ることになります。
病院で骨を折り入院している患者と看護師の話し合いは、誰かと他愛もない話をすることが、いかに重要か、その何気ない話こそが、日々の美しさであることをみずみずしい演技から感じさせます。
警察官の二人は、権力をもった二人の身勝手さを走行中の車のなかの話し合いで見せます。それは、何が起こっても結局自分を中心にして物事を考えてしまうという、一面的な判断とはどういうことなのかを演じながら自らが体験していると言えるでしょう。

ほかにも、酒とドラッグびたりの弟とそれを心配する姉は、家族の尊さとはなにかを描きます。
老いた母親と若い息子。記憶が朦朧としつつも、しかしときに正気に戻りなにかにしがみつこうとする老婆である母親の独り言は、若い息子の存在との歪な人間の関係性に着目します。
殺し屋と被害者のくだりでは、自分の人生が一瞬にして終わってしまうかもしれない、突きつけられた銃というものの恐怖のなかで、一瞬にして自分の人生を振り返る人間が暗示されます。
そして、脚本家は物語を自由に書けるからこそ、妻にその姿勢を責められます。たとえ空想の世界であっても、倫理とはなにかが、芸術というものを扱う表現者には問われること。それは、まさに演劇という芸術を学ぶただ中にいる学生たち本人に響いたいくつもの言葉があったでしょう。

赤組は専攻科の1年生が中心となって演じ、青組は専攻科の2年生が演じるというダブルキャストで今回は上演されました。また、オープンキャンパスと同時開催だったため、多くの高校生たちにとっても本学の演劇教育の成果の一端を見る機会になったと思います。
3時間におよぶ大作でありながら、舞台を見慣れていない高校生たちも、片時も目を離さず、食い入るように舞台を見つめていました。その姿は、きっと数年先の自分たちも舞台に立ったときにこのような演技をできるようになりたいと考えていたのではないでしょうか。それほどに、専攻科生の演技は自分たちの遠く離れた世界観である死をめぐる物語を必死に手繰りよせながら、演じようとしていました。

自分では考えたこともない、もしくは遠く離れたことかもしれない出来事を実際に演じて見せること。それは、そのものの本質を学ぶという演劇ならでのは、物事を深く知るための方法です。わたしたちは常に半面では、死というものに向き合っているからこそ、生とはなにかを知ることになるのです。
実際、死はどこにでもあります。日常生活のどこにでも、死は転がっています。その「いまわのきわ」の周辺にいるはずなのに、ふだんは見過ごして気づいていない。それは、専攻科生たちの今を必死に生きている、死のにおいをまとわない生き生きとした演技があるからこそ、死とはなにかを逆説的に現していたのではないでしょうか。

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